ネガティヴ・ハイブリッド
〔ウィリアム・ギブソン再訪〕
2001年04月15日
Tag: 論考、サイバーパンクSF、ウィリアム・ギブスン、バロウズ
「サイバースペースのゴッドファーザー」、「コンピューター・エイジの寓話作家」の紋切型は進化を続けている。90年代以降、対ヴァーチャル・リアリティの倫理やフェミニズムが発動し、折に触れて彼の名前が囁かれていた。見るべきものは少なく、「ギブソン」という神話だけがいたずらに積み重ねられている。「空虚な」としばしば軽蔑的に語られる80年代はギブソンの射程をもう少し浮き彫りにできていたのではないだろうか。「参照的(referential)な在り方」というもの、既存のテクスト、概念を援用し新たな文脈の中で異なった意味作用を生じさせる、そんな方法論が明快に見えていなかっただろうか。既に=書かれていた=はずの=ものが=再び=何度でも=姿を=変えて=蘇る。引用や盗用、オマージュやパスティッシュ。でもそれだけではなかったはずである。意味と戯れたわけではない。リアルタイムでのウォーホル体験〔註1〕 が世紀末芸術のバブル構造を借りて開花したとき、参照的な在り方そのものが問い直されていた。あの既視感、眩暈の連続は見事に一蹴される。
〔1〕 ≪I'm very proud to say I was like an ardent Velvet Underground freak from the release of their first album. And (...) Andy Warhol produced these guys≫:アディクティッド・トゥ・ノイズ誌(以下ATN誌)、ミカエル・ゴールドバーグによるインタヴューより。
1993年、ギブソンは友人スティーヴ・エリクソンと共に朗読会のセッションに参加している。「ライム=紫色の対角線がスクリーン上で追いかけあって薄れていった」。ギブソンはこの一節で読み始める。参加者が求めていたのは予言者の肖像であり、朗読された一節はその期待に応えている。だが朗読の後でギブソンは「暗いコミカルさを備えた都市型探偵小説、社会的なコメントを幾つか放りこんだ」〔註2〕 と新作を形容する。人々の偶像崇拝を軽くかわす身振りは示唆的である。「サイバー・スペース」一般をめぐる経済/神話が肥大していくなかでその「概念を先取りした」とされる人物だけがマトリクス神話をご破算にし異なったものを摸索している、そんな印象がある。
〔2〕≪He [=Gibson] later described it as a darkly comic urban detective story with social commentary thrown in≫ : ニューヨーカー、1993年8月16日付の記事。
同93年「ワイアード」誌に発表。ノンフィクショナル短編「ディズニーランド、死刑有り」は、シンガポール滞在を元にした完成度の高い小品になっている。前半部分ではシンガポール史(ラッフルズ卿による自由港の創設からリー・クヮン・ユーによる権力掌握まで)について触れている。そこかしこにギブソンらしい視点を孕んだレトリックが散見される。でもこの一節は観光客向けに配布されているガイドを下敷きにした巧妙な「転写」だった。煩わしい分析は必要ないだろう。年号と人名、出来事に「てにをは」を混ぜただけの文章、その無味乾燥を一挙に解体し、彼独自の用語法を織り交ぜて「別な」文章へ変換してしまう。この方法はギブソン的なものへの示唆を多く含んでいる。
「オリジナル」を実証的に網羅するべきだろうか。汲み出せるものには限りがある。元ネタ探しに駈けずりまわる者は参照と引用を混同しているのだ。一覧表作りは楽しい作業だがその前に一度立ち止まって考える。
「ポップカルチャーは(…)我々の未来の可能性を試すテストベッドである」の一文を例えばテーゼと見なす。一見、ポップ・カルチャーを原動力として未来の可能性が開かれていくように見える。だが未来などと軽々しく呼ばれているものは今やポップ/大衆性の「培養=カルチャー」でしか生き延びることはない、架空のペシミスムを読み取ることもできる。解釈は両義的となる。両義性に裁決を下すのは文脈だろうか?いや、文脈もまた曖昧である。では作家の未来ヴィジョンだろうか?
僕は自分がディストピアンではないと思ってる。ユートピアンじゃないのと同じようにようね。この二分法って実際どうしようもないくらい古びている。〔註3〕
〔3〕≪I really don't think I'm dystopian at all. No more than I'm utopian. The dichotomy is hopelessly old-fashioned, really.≫:スパイク・マガジン誌(以下SP誌)、アントニー・ジョンストンとのインタヴュー。
「ポップカルチャーとは(…)我々の未来の可能性を試すテストベッドである」、「未来は生まれつき複数的なものである」〔註4〕 etc. 最初からテーゼでさえなかった。措定の仕方に空虚なものが織りこまれている。真偽も信念も問うことはできない、とはいえ決して魅力を欠いているわけではない、そんな文章が不意に現れて消えていく。サンプリング/リミックス以後の文学ジャンキーは言い回しの洗練、現れてくるタイミングを感覚的に楽しんでいくだろう。DJ指向の書き手であるギブソン(音楽的な趣味ではそうではないのに、この対比も面白い)もまたその不定形な「フィーリング」を共有し、身をゆだねてみせる。単独で取り出したときの陳腐さはお互い承知済みである。理念レベルでの勝負では決してない(作家というのはよほど大物でないかぎり負け続けるに決まってるではないか)。読み手/書き手の双方から感覚的快楽を摸索することが行われている。摸索は手探りとなる。そしてそれだけではない。
〔4〕≪”Future” is inherently plural≫, All Tomorrow’s Parties, p. 107. Penguin Books Ltd., 1999
ギブソンの著作がサンプリング・エイジとシンクロする形で生まれていること、理念には接続不可能なテクスチャーが多く含まれていること、結局文章をいくら切り貼りしても「ヴィジョン」や「未来論」を再構成できないこと、こういった諸々には常に留意すべきだと思う。ギブソンが「サイバーパンク/マトリクス」を消し去り、封印してしまってから十年が経過している。昔話は止めてもいい頃である。
巨視的に見てみるとギブソンの作品は寄木細工に似ている。高度に実験的な寄木細工。「寄せ集め」ていく、あるいは「コラージュ」〔註5〕 する、それはギブソン自身が表明している作業原則だった。人々が新世紀の予言者を期待しているのというのにこの人は全然違う方向を向いてるのだ。「DJ指向」など安易に言い換えたら憤慨するだろうか?「アセンブラージュ/コラージュ」を語る方がしっくりくるという作家のこだわり、そして文脈は尊重したほうが良さそうである。
〔5〕≪それ(僕の仕事)は寄せ集めのプロセスで、ある種のジャンク・コラージュのようなものかな(It's a process of assemblage and it's sort of junk collage)≫:ATN誌でのインタヴュー。
議論的なプログラムを定式化してみる。
テクストを前提とする「アセンブラージュ/コラージュ」が単純なものではなく、同時進行的に複数レベルで生じていることを確認。可視的な諸レベルでの考察。そうではない諸レベルへの展開。許されるのであれば、その総合を示唆。
議論の叩き台となる見解をひとつ提示してみる。
(1)「テクスト産出」を目的とするシステムが動き始めたとき、エクリチュールを構成する諸々のレベルが音をたてて一斉に機能し始める。諸レベルは実際には目に見えるものでもないし、綺麗に分離されているわけでもない(文章を綴っていく際、あらゆる瞬間に「文法」や「構文」、「論理」を配慮し続けるのは不可能である):諸レベルはあくまでも生み出されるテクスト内部に「下位のもの」、目的に付随した二義的なものとして溶けこんでいる。
エクリチュールが単一な連続体で、「文法性」や「構文性」、「論理性」、「表象性」といった(直接見ることのできない)下位的属性を帯びているという把握である。
(2)テクスト産出を異なった視点から理解できる。この視点は「文法」や「構文」、「論理」をより実体的に捉え、例えば論理を連続的な展開として見ている。論理的連続体や文法的連続体を想定するということだ。結果として、エクリチュールはそのような諸々の連続体を束にした「複合」として定義される。前者の視点が「エクリチュールを構成する諸レベルが機能する」と見たもののは転倒され、「諸レベルが機能するなかでエクリチュールが構成されていく」という後者の視点となる。
もちろんこの種の単純な二分法は大きなリスクを孕んでいる。結局は「エクリチュールは連続的」という仮説が無批判に認められている。エクリチュールの思索者たちを引き合いに出すまでもない、この仮説はかなり胡散臭い。「連続体仮説」を問い直してみること。でもそれは自己言及的パラドクスをはらんだ泥沼だった。我々が扱うのはギブソンの作品である。この仮説の是非は保留して先へ進んでいこう。
上の二分法に照らし合わせてみる。ギブソンという書き手は明らかに後者のカテゴリーに属している。彼は小説の「素材(マテリアル)」について語っているが、そこには「対象化」と「物象化」が自然なものとなった以後の作家の眼差しがある。文法的連続体や構文的連続体、論理的連続体といったものを操作的に組み合わせ、そこから得られる最良の効果を求めていく。
「ポップカルチャーとは(…)我々の未来の可能性を試すテストベッドである」。『あいどる』からの一節である。何か理念を反映しているかどうか問いかけるより、(…)で省略した部分を考え直してみたほうが良い。元の文章は次のようなものだった。
「「そしてポップカルチャーとは」と彼は言った、「我々の未来の可能性を試すテストベッドである」」 〔註6〕
(“And Popular culture”, he said, “is the testbed of our futurity”.)
〔6〕Idoru, p239, Penguin Books Ltd., 1997.
措定的な命題が異なったレベルの文章(「彼は言った」)で切断されている。もちろん対話構成の中に「-が言った」という要素を組みこむのはありふれた慣習である。厄介なことに誰も口にしないくらい習慣化している。ギブソンはその慣習を無自覚には用いていない。ここには微小な切片の「組み合わせ」があり、切片による「切断」がある。作家が意識してるかどうか別として、テクストを複合性の高いもの、頻繁に分節化されたものへ持ちこもうする指向性はこんな細部にまで現れている(同じ「he said」を文末あるいは文頭に置いたとき、切断的な効果は一切生じない。「組み合わせ」の効果も遥かに弱くなる)。
テクストを対象にした場合、「切断」の手続きと「アセンブラージュ/コラージュ」は表裏一体になっている。「切る」という操作はエクリチュールの実質的連続性を想定した表現である。同じものを反転させれば、「ポップカルチャーとは」、「彼は言った」、「我々の未来の可能性を試すテストベッドである」という三つの要素を「組み合わせた」と見ることができる。ギブソンが自己の創作技術を「切る」ではなく「アセンブラージュ/コラージュ」と呼んだのは、エクリチュールが何らかの複合体として捉えられているからである。実際の作品を埋め尽くしているのは手に負えないぐらい複雑なコラージュだが、それは今の例のような素朴で感覚的な手続きを徹底的に押し進めることで成立している。
ギブソンにとって、「素材」としてコラージュされるのは単なるデータの集積ではない。例えば(1)伝統的行動主義の流れ(ただしチャンドラーの影響は否定してる)を拒みはしない簡素な「語り」、(2)調査と観察を元にして練り上げたもので、単独で見ればカルチュラル・スタディーのパロディになっている「分析的ディスクール」、(3)ベケットが暇つぶしにサンフランシスコの俗語を試したような「対話篇」、(4)ポップカルチャーの切片を次々に視覚化し、人物や事物の特徴を縁取っていく「描写的ディスクール」etc.。多くの書き手は語りや対話、分析といったものを無反省に混在させている。ハードカバーで500ページになる作品を次々と量産するためには面倒なことを考えてはいられない。だがギブソンはこれらの技術的要素までを対象化、「素材」化している。いかに効果的に組み合わせ、いかに効果的に不在させていくかという問題設定であり、寄木細工はそこから生まれてくる。ギブソンは手探りの摸索を続けている。15年以上にわたる作家生活の中で個人名義の長編が六つしかない寡作ぶりはその摸索の困難さを示している。
この作家は組み合わせコラージュしている。それは良いとしよう。だがそう言ったところで何の役に立つのか?
(バロウズに帰されている)「カット・アップ」技法とギブソンの方法論の相違を理解する手がかりが手に入るのである。
W・S・バロウズとの類比はデリケートなものになる。15、6歳のときに読んだ「裸のランチ」の衝撃を作家は語っている〔註7〕 。バロウズを読むことは「a very formative experience」であった。小説を読む/書くという経験を形成して(「formative」)いく拠り所のひとつだった。その結果バロウズの愛好した作家/詩人(ランボー、ベケット)の影響力がギブソン著作にも現れてくる。あるインタヴューでギブソンは「バロウズネス(バロウズ性)」〔註8〕 という表現まで用いている。ギブソンが先輩に負っているものは我々が想像するより遥かに大きい。
〔7〕≪Round about that time probably the most significant thing that happened in terms of having an impact on my work is when I was fifteen or sixteen I discovered William Burroughs. (...) that was a very formative experience.≫:ATN誌でのインタヴュー。
〔8〕ギブソンは≪オール・トゥモローズ・パーティー≫のある登場人物を≪バロウズ性の無意識的表現(An unconscious expression of Burroughsness)≫と形容している。
バロウズによる定式化/理論化を先に見ておこう。ブライオン・ガイシンとの共著であり、「カット・アップ」理論の原典ともなった『サード・マインド』を満たしているのは確かに「切る」という概念である。しかしこの「カット・アップ」概念はバロウズではなく共著者ガイシンの発案だったと思われる。同時期に書かれたバロウズ個人名義のテクスト、「始まりはまた終わりでもある」(『バロウズ・ファイル』収録)あるいは『ノヴァ急報』序言を見れば、「ガイシンによる“カット・アップ”手法」の注釈が付されている〔註9〕 。彼自身が好んでいたのは「フォルド・イン」だった。概念の所有権をめぐる争いではない。テクストに対する把握の仕方が異なっている。「ハサミや飛び出しナイフ」を使って「切る」のではなく「折りこんで」いくという定式化、そして「複合的/合成的(composite)テクスト」〔註10〕 という表現は我々が語ろうとしているコラージュ的志向を強調している。だが実際にこの「フォルド・イン」で念頭に置かれていた対象は「語りによる直線的テクスト(straight narrative text)」〔註11〕 だった。先に我々が「エクリチュールの単一な連続体」と名づけたものに近い意味合いで使われている。
〔9〕≪the cut up method of Brion Gysin≫, The Beginning Is Also the End (1963), ≪The Burroughs File≫.
≪Brion Gysin’s cut-up method which I call the fold-in method≫, ≪The Nova Express≫(1963).
〔10〕≪The composite texte is the read across half one text and half the other≫, The Future of the Novel (1964), ≪The Third Mind≫収録。
〔11〕≪I have frequently had the experience of writing some pages of straight narrative text which were then folded in with other pages (...).≫, The Future of the Novel(1964).
バロウズによる定式化の内部で、「連続的実質としてのエクリチュールを切断していくのか」、「異質なものを組み合わせ複合的エクリチュールを構成していくのか」という問題は未分化だったと判断できる。「切る」と「貼る」をワンセットで捉えている意識は実践レベルでも反映される。「カット・アップ」や「アセンブラージュ/コラージュ」、時には両者を交差させた折衷的技法が混在し、バロウズなりの「ランダムさ」で現れてくる。
ギブソンの手法を考えたとき、それをバロウズ直系と性急には位置付けできない。「フォルド・イン」が孕んでいた問題設定の一部分を彼なりに吸収し、独自に発展させていったと見るべきであろう。
単に技法レベルの話ではない。バロウズ/ギブソン両者の問題設定の違いが見えてくる。60年代にバロウズが解体を試みたのは「エクリチュールの連続体仮説」だった(実際のところエクリチュールではなくむしろ「声/パロール」、作品を貫くモノローグを想定している)。バロウズ諸作がこの「連続体」をどの程度解体できているか別として、問題設定でより過激なのはバロウズになる。他方、ギブソンはこの連続性を出来る限りナイーヴに肯定する。彼の戦略はバロウズ(ネス)をも媒介として過剰な負荷を与えていくことである。ギブソンはハサミを手にテクストを切り貼りするわけではないが、実際に文章を「直線的に」生み出す過程でバロウズ風の内破を次々と作り出すことができる。フォルド・イン的な手続きは作品の第一原理であることを止め、諸々の技法のひとつとして連関に組みこまれている。ギブソンは質的多様性を対象化しつつそれを量化し、「直線的」にコラージュしていく。この戦略は「エクリチュール連続体仮説」に対する根源的な批判を目論んではいない。意味性に対する戦略レベルの違いは、バロウズとギブソンを同一の次元で語ることを不可能にしてしまう。
平板なテクストを「転写」しつつそれを固有のテクストへと高めていく技法、そして「アセンブラージュ/コラージュ」。この両者は既存のもの(前者においてはテクストそのもの、後者においてはエクリチュールの諸レベル)を媒介としている点で繋がってくる。だが両者は大きな連関の一部にすぎない。ギブソンという名の文学機械の複雑さ、繊細さを理解するため、個々の作品に言及しながら手がかりを導いてくることにしよう。
1986年に出版された短編集『バーニング・クローム(クローム襲撃)』は70年代の作品まで含んでいる。初期ギブソンの問題設定や技法的興味を集約した書物である。後の『あいどる』で導入されるヴァーチャ・ファム・ファタル「レイ・トウエイ」の原型を「セミオティック・ゴースト」に見ることもできる。分析はきりがない。本論ではあくまでも方法論に焦点を絞り「ふさわしい連中(The
Belonging Kind)」という短編を取り上げる。ジョン・シャーリーとの共作としてクレジットされているこの作品、成立過程についてギブソンは次のように語っていた。
話のラフスケッチを送ってきて批評を求めてきたんだ。批評を書き始めたんだけど、僕が書き直した方が実際手っ取り早いし、面白いんじゃないかって思った。すぐに書き直したよ。ラフスケッチの大半を切り刻んで短い原稿にしてしまった。〔註12〕
〔12〕≪(...) he had sent me a draft of a story asking for a critique. I started writing the critique and realised that it would actually be faster and more fun if I rewrote the story. So I very quickly rewrote it, cutting great hunks of it and producing a much shorter manuscript.≫:1996年、アルベド誌、ロバート・ニールセンとのインタヴュー。
「切り刻む(cutting)」という形容を受けた「書き直し(rewrite)」。それは「転写」の例と「コラージュ/アセンブラージュ」を橋渡ししていく。バロウズの時代あれほど釈明の必要だった「切り刻み」は当たり前の手法として軽く語られる。「批評性」の方に強調が置かれている。「カット・アップ」風の手続きは批評的な在り方に従属した副次的な扱いを受けている。いずれにせよテクストは「切り刻む」ことのできる一つの「事物」であるという把握、すなわちテクストの物象化が最初期から生じていたのが良く分かる。
後の『ディファレンス・エンジン』で見られるように、ギブソンにとってコラボレーションは重要な意味を持っている。他者のエクリチュールに対峙しそれを媒介にして自分のテクストを生み出していく。その時に無媒介的な状態と異なった緊張関係に身をおくことになる。エクリチュールの他性がこのようにネガティヴ(cf.ヘーゲル)な形で自己のテクスト産出に関わっている。それを自覚的な意識の下で経験する。それがここでの「批評」の意味であろう。無反省/無媒介的に取りこまれた粗雑な引用・サンプリングからギブソンの方法論を決定的に隔てているのはこの批評意識である。
ギブソンは『モナリザ・オーヴァードライヴ』(1988年)で「サイバーパンク三部作」を終結させた。この作品は『ニューロマンサー』の圧倒的影響力を前にして過小評価され、今でも過小評価されつづけている(その証拠にマンガから小説、批評といった領域で『ニューロマンサー』のみの再構築である「サイバースペース」を発見できる)。一元的な語りを備えた『ニューロマンサー』に対する多元的な『モナリザ・オーヴァードライヴ』、確かにその通りなのだが、対比はそれだけではない。「語り」のレベル以外にも変化、溝がある。この二作品を何が隔てているか自問すべき時である。
「サイバースペース」概念(作中では「マトリクス」の方が頻度が高い)に関わる記述を追ってみる。質的な変化が見て取れる。初期の言及はおおよそ三系統に分けられるはずである。
(1)マトリクスの定義:「マトリクスとは、データ・システム間の諸関係を抽象的に再現したものである」〔註13〕 、「サイバースペース・マトリクスとは実際のところ、人間の感覚器官を徹底的に単純化したものである」〔註14〕 etc.
〔13〕≪The matrix is an abstract representation of the relationships between data systems.≫, ≪Burning Chrome≫, p.197, Harper Collins Publishers, 1995.
〔14〕≪the cyberspace matrix was actually a drastic simplification of the human sensorium, at least in terms of presentation (…).≫, Neuromancer, p.71, Harper Collins Publishers, 1995.
(2)歴史的起源:「マトリクス起源にあるのは、(…)原始的なアーケード・ゲームと初期のグラフィック・システム、軍隊が頭蓋骨に対して行った差し込み(=ジャック)”の実験である」〔註15〕 etc.
〔15〕≪The matrix has its roots in primitive arcade games (…) in early graphics programs and military experimentation with cranial jacks.≫, Ibid, p.67.
(3)視覚的描写:「頭の中でマトリクスが折り目を開きはじめ、完璧に透明な無限の3Dチェスボードになった」〔註16〕 etc.
〔16〕≪the matrix began to unfold in my head, a 3-D chessboard, infinite and perfectly transparent.≫,Burning Chrome , p.195,
大雑把な言い方だが、初期のギブソンは「この現在から生じうる擬似的未来」に「マトリクス」概念を組みこんでいこうとする(特にその傾向は(1)と(2)で顕著)。
だが実際テクストを読んでみても「マトリクス」が何かはっきりしない。ギブソンが試みているのは、彼自身が簡潔に「暗示」と要約してしまったもの、しかし実際にはもっと手のこんだプロセス、つまりある概念をめぐった論理構造が完結しないように持ちこんでいくことだ。それ自身では筋の通った小さな論理構造を積み重ねていく中で、決して一義的な解釈を受け入れないように緩やかに連結していく。「データ・システム間の諸関係を抽象的に再現」したものがどうして同時に「人間の感覚器官を徹底的に単純化したもの」でありえるのか、そしてそれがどうして「アーケード・ゲーム」に起源を持つのか、詳しいつながりは説明されない。我々が何か合理的解釈を見出すのは自由である。だが残念ながらその解釈は作品によっては追認されない。常に先送りされる「なぜ?」、「何?」、「どうして?」の構造が決定を許さないのである。「マトリクス」概念をめぐる不確定性、曖昧さは意図的に、自覚的に築き上げられている。諸記述の間に残された意図的な矛盾や言い落としは、総体としての論理が不完全なまま留まることを要求している。
「何か合理的な基盤を元にした作業なんてしない。やってるのはスレスレのこと(「seat-of-the-pants thing」)なんだ。合理的じゃないって感じてるかぎり、本当に自分の仕事をしているって確信できるのさ」〔註17〕
〔17〕≪I don't work to any rationale; it's a seat-of-the-pants thing. And the extent to which I can feel that it's not rational, is exactly the extent to which I'm convinced that I'm really doing my job≫:SP誌でのインタヴュー。
この発言は文字通り受け取られるべきである。ただし、ギブソン作品における非合理的構造は、あくまでも合理的な記述の断片を組み合わせていくアセンブラージュ/コラージュ作業から生み出される。小さな論理ユニットが大きな論理体へ回収されてしまう危険性を引き受けながら記述を進め、合理的統一性を生み出すか出さないかという「すれすれ」のところで、むしろ「合理性」をなしていないぎりぎりの段階で記述を停止する。この作業は何も「マトリクス」概念ひとつに限定されたものではない。『ニューロマンサー』の中で、「テシエ/アッシュポール」から「スプロール」に至る諸々な概念は全てこのような「反=合理的」な処理を受けている。「反=合理的」の表現は適切ではない。実際ギブソンは西欧的合理性を一挙に転倒しうるなど考えていないから。バロウズより控え目に、そしてクールに。あくまでも「合理性を部分的に無効化」と捉えたほうが良い。
『モナリザ・オーヴァードライヴ』の変化は微かだが無視できるほどではない。この変化を表現しているのは「神話形態」の導入である。「マトリクス」と「神」についての議論から分かるように本作は「マトリクス」概念を神話へ接続しようとする。この種の議論が文学外の文脈で持ちうる有効性は本論の分析するところではない(この主題に関しては、S・ジジェクが彼独自の用語法‐ラカニアンなそれ‐で語ってくれる〔註18〕 )。ただし、「神話形態」を摸索していくときのギブソンの手つきが『ニューロマンサー』での「非合理な」在り方に抵触しているのではないか?の問いかけは可能である。
〔18〕スラヴォイ・ジジェク、邦訳「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」、≪InterCommunication≫24号、1998年。
「マトリクスが感覚へと達したとき、同時にもうひとつの他なるマトリクスに気がつく」という記述に注目してみよう。何を言おうとしているのか考えても時間の無駄である。「マトリクス」を例えば「人」に置き換えてみれば良い。浮かび上がってくるのは認知心理学入門書に載っていてもおかしくない文章である。ここで見て取れるもまた他者のエクリチュールの痕跡(具体的なテクスト改変であるのかそれとも記憶によるものかは書き手にしか分からない。作家自身も判断できないことさえあるだろう)。その意味での「参照性」は守られているし、コラージュ的な要素も明白である。でもここでは『ニュー・ロマンサー』で見られたストイックなまでの「反合理主義」が薄れている。合理性の断片をクラッシュさせていく瞬間の破壊力が消えている。
「マトリクスが感覚へと達したとき、同時にもうひとつの他なるマトリクスに気がつく」〔註19〕
「サイバースペースは“形態=輪郭”を、つまり全てを覆い尽くす全体的な形を備えている」〔註20〕
「マトリクスの側に全知性、遍在性、理解不能性があるという仮説」〔註21〕
〔19〕≪when the matrix attained sentience, it simultaneously become aware of another matrix.≫, Mona Lisa Overdrive, p.315, Harper Collins Pulishers, 1995
〔20〕≪Gentry was convinced that cyberspace had a Shape, an overall total form.≫, Ibid, p.83.
〔21〕≪omniscience, omnipotence, and incomprehensibility on the part of matrix itself≫, Ibid, p.138.
「もうひとつ他の」、「全体的な」、「全知性、普遍性、理解不能性」、こういった言葉遣いはギブソンにしては雑なのではないか。「神話」要素を公に組みこんでしまえば後に残されているのは無際限な拡張である。個々の論理ユニットが神秘を内包し、それらは「神話」という漠然とした総体に吸収される。微小な論理ユニット(対象化を経た論理破片)をすれ違わせ、矛盾させ、あるいは欠落させることで生じていた揺れ、あるいは「間」は完全に消え失せたわけではないが背景へ退いてしまっている。
若干の逸脱。文化解釈学者としてのギブソンに言及しておこう。言葉に対する独特のアプローチを少しだけ強調しておきたいのだ。生活細部に浸透した諸々のイコンを次々と捉え、ユーモアをこめて言語化していく技術は圧倒的である。
別にわざわざ“調べてる”わけじゃない。フラフラ歩いてるだけさ。[…] 注意を払うってのが大事なんだ。
種明かしは半分だけ。日々の観察をどう言語化していくか触れていない。
固有名詞としてのイコンを形容詞化していく手法がある。例は無数。「カンディンスキー風の低いコーヒーテーブル」、「ディズニーランド様式のテーブルランプ」、「GAPの真似をしたクローンたち」、「バービー人形のようなスラブ系少女」等々。訳してしまうと凡庸に思える。邦訳は原文のニュアンスや構造を消し去ってしまうが、「a low Kandinsky-look coffee table」〔註22〕 、「Disney-styled table lamps」〔註23〕 、「Gap clone」〔註24〕 、「Slavic Barbies」〔註25〕 のようにイコンを濃密な形容詞として、形容詞的に用いる手法は彼固有のものである。イコンがまとっている様々な意味作用を保存し、なおかつ具体的な注釈を省くことで読み手ごとに異なったイマジナリーを喚起させる。
〔22〕Neuromancer, p.21.
〔23〕Neuromancer, p.21.
〔24〕Disneyland with Death Penalty, in ≪Weird≫.
〔25〕Idoru, p.3
もうひとつの方法は展開へと向かう。イコン=固有名が文字通り受け取られた場合に何が起こるか考えてみるのである。『あいどる』(1996年)でのギブソンは、イコン性の高い固有名詞を次々と異化して作品の「マテリアル」にしてみせる。典型的な11章を例に取ろう。80年代ドイツで暴力的な機械音を響かせていたインダストリアル・ユニット「アインステュルツェンデ・ノイバウテン(崩壊する新建築)」の名は英語へ移し変えられ、「Collapse
of New Buildings(新建築物の崩壊)」となる。この章題は期待を裏切らない。登場人物コリン・レイニーがホテルの窓から垣間見るのは「新=建築物」が有機的に蠢きながら崩れていくイメージである。ギブソンはイコン化された固有名詞を注視し、そこから思考/想像してみる。「ポカリ・スゥエットって一体何の汗なのかしら?」。たまにつまらない駄洒落もあるがご愛嬌。個々の固有名が孕んでいる微小なナラティヴを時にシリアスに、時にカリカチュアルに増幅していく。
「アセンブラージュ/コラージュ」概念のニュアンスを損なわないよう配慮はしてきたつもりである。しかし厄介な問題を棚上げしているのも真実だろう。例えばギブソンが「コラージュ」と言ったとき、暗にほのめかされているランダムさはどの程度かという問い。それだけではない。我々は「意図的に」とか「自覚的に」という表現を繰り返し用いているが、ランダムネスと両立するのだろうか?
ギブソン自身は「最初は非常にランダムな作業過程」〔註26〕 という表現を用いている。「最初は」という限定は興味深い。作品に照らし合わせてみると二通りの読みが可能になる。(1)始めの段階ではランダムに思えた布置の内に、次第にそれ固有の必然性が見えてくること。初めて夜空に星座を読み取った者の視線に似ている。(2)ランダムさそのものがひとつの必然的構造になること。つまり自分をスキゾ的な文学機械にしていくこと。もちろん(3)テクスト構成という人間臭い作業に厳密な意味の「ランダムさ」はありえない、意地悪く口を挟んでしまえばギブソンの発言は単なる比喩と化し、議論全体が破綻する。ただし(4)必然性が(例えば無意識という形で)どこかに潜伏していたという解釈は完全に拒否されている。この欠落は重要だと思う。作者でも事後的にしか把握できない「潜在的必然性」などは認めない、ギブソンはそう断定しているのである。
〔26〕≪it's really a very random process initially, at least for me≫:ATN誌インタヴュー。
再び分析へ。ここまで進めてきたのは諸レベルで行われている実践の問題だった。だが、「物語」という強力なレベルがどう振舞うのかまだ語られていなかった。ここでカギ括弧を付した「物語」は、文体レベルでの「語り(ナラティヴ)」とは違っている。それは作品に内在する大きな「流れ/ストーリー/プロット」であり、他方でそう言った流れを可能にする近代的イデオロギーでもある。
ギブソンの著作にも要約可能な「ストーリー」は存在している。明快で、要約してしまえば限りなく陳腐でもある。例えば『ニューロマンサー』の第1部‐第2部はノワール的銀行強盗劇の再解釈、『ヴァーチャル・ライト』全体は「巻き込まれ型スリラー」と「私立探偵物」を組み合わせている。この要約が間違いとは言えない。しかしペーパーバック背表紙に要約された粗筋と読後感の落差は埋めがたい。
「物語」に対するギブソンの戦略が最も極端な形で展開されたのが『オール・トゥモローズ・パーティーズ』(1999年、以下ATP)である。本論で何度か引用している 「スパイク・マガジン」誌インタヴュアー、アントニー・ジョンストンが興味深い指摘をしている:「この小説の筋立ては、本そのものを押し進めていく目的というより未来の都市生活の飾り模様を掛けておく土台のようなものだ」〔註27〕 。ATPに要約可能な筋立てが存在していないのを暗黙裡に認めた、と受け取って差し支えない。リアルな世界と情報世界の二分法に基づき、情報レベルで「何かが変化している」ことが暗示される。現実レベルの登場人物はその変化に対応する形で行動する。一連の流れは最終的に「橋」への放火、焼滅に集約していくが、「何が起こったのか」は明示されない。個々の出来事、登場人物の動きを要約しても明快な「物語」にならない。
〔27〕≪the novel’s plot seems more like a framework around which to hang vignettes of future urban life rather than being the driving purpose of the book itself.≫, SP誌でのインタヴューより。
「暗示的にしか語りえない物語」の発想は『ニュー・ロマンサー』や『あいどる』にも存在していた。しかしこの二作では補うように「明示的な物語」が併置されていた。ギブソンはATPでこの平衡関係を崩してみせる。
対「物語」戦略に関わっている細かな手続きを見ていこう。「物語」経験が可能になるのは、(1)継時的な「語り」や(2)登場人物の行動の「描写」、(3)「対話」や「独白」の流れ、諸々の要素が何らかの形で直線的に統合されることが前提になっている。ただしある程度の長さを備えた作品では、作中の全ての要素が物語構成に参与する必要は無い(ほぼ全要素が物語構成に参加してるケースもある。例えば昔話)。小説の内部で物語構成に参与する要素と参与しない要素が分離しているのである。
それゆえ。後は「概念をめぐった論理的一貫性」分析と同型である。物語構成的要素を断続的に産出し、組み合わせていくプロセスの内部で、それらが最終的にひとつの物語へ「収斂しない」ことを目的に書くことができる。「明示的に語りうる物語」をぎりぎりで破綻させる、ATPはそれが目的としてはっきり自覚された最初のギブソン作品である。ただこの破綻は「物語」に対する全否定、根源からの批判ではない。「物語」というイデオロギー、信念が確固として存在している前提を踏まえた戦略であり、ある意味で完璧に「物語」に依存している。
冒頭のプログラムへ戻ってみる。
「テクストを前提とする「アセンブラージュ/コラージュ」が単純なものではなく、同時進行的に複数レベルで生じていることを確認。可視的な諸レベルでの考察。そうではない諸レベルへの展開。許されるのであれば、その総合を示唆」
これまでの分析は全て「可視的な諸レベル」に属している。小説を書く際に関わってくる諸レベル(意味や文体、論理、物語。本論では触れないが構文法・文法・修辞法も含まれる)を無反省に引き受けるのではなく、批評的距離を維持しながら書きつづけること。この距離感はまた諸レベルを対象化して見ることを可能にし、「書く」行為に「オブジェをコラージュする感覚」を導入する。コラージュは複合的、同時多発的に進められる。推敲の段階でコラージュ性は強められたり弱められたりもするだろう。こう見てみると、ギブソン諸作では「錬金術」から「カリグラフ」、新語創造に至るまで様々な技法が対象化されているのが分かる。彼は正確には「コラージュ」とだけ言ったのではなく「ジャンク・コラージュ」と言ったのである。文学的モダニズムは残滓として、「ゴミ屑」として保存される。ギブソンがポップ・アートとネオ・ダダの正統な嫡子だという所以でもある。
ギブソンの作品に「ポスト・モダン」、「ポスト・モダニズム」の形容が濫用された時期もあった。それに対する批判はしない。「近代」とは何であり、どのような「以後」があるかは人によって大きな把握の差がある。把握の仕方によってギブソンは保守主義者/解体者/異端者/部外者と好きに呼び分けられるだろう。我々が言えることはただ一つ。文学的戦略のレベルで「近代」に対するギブソンの態度は筋の通ったものらしいということである。
分かりやすく作品を終らせたら僕は納得しなかったな。文学寄りの読者は満足するかもしれないけれど、わざとらしい感覚が残ってしまう気がした。暗示の方法をもう一回使うのが良いかなって(…)、読者を謎だらけのまま残してしまうほうがね。
ギブソンはそう語った〔註28〕 。ATPにおける「暗示的に語られた物語」とその前景化とは何か?
〔28〕≪If I provided a more apparent closure, it wouldn't satisfy me. It might satisfy the more literal-minded part of my readership, but it would have left me feeling that I had faked it. For me it was better to suggest again (...) to leave the reader with suggestions.≫, WEBMASTERのインタヴューより。
足がかりにギブソンの多用するレトリックを挙げてみる。「Everything」や「Something/Some things」など漠然とした語を論理に組みこみ、特定せずに話を進めていくのは彼の得意とするパターンである。
「(1911年に)全てが変化した」。〔註29〕
「何かが今起こりつつある」〔註30〕
「潜在的に、そして文字通り全てを変えてしまうもの」
「ある物事は“絶対に生じない”という形で生じている」〔註31〕
「全てと無とが変化しようとしている」〔註32〕
〔29〕≪“What happened in 1911?”, ”Everything changed”. ≫, All Tomrrow’s Parties, p. 4. Penguin Books Ltd., 1999.
〔30〕≪”Something’s hapenning”, Laney says and coughs into his hand (...).≫, Ibid, p. 59.
〔31〕≪Some things never happen, he reminds himself.≫, All Tomrrow’s Parties, p. 226.
〔32〕≪It is a moment in which everything and nothing will happen≫, Ibid, p.178.
意図的な言い落とし、言い残し。
「今、内側の深い場所にいるんだ」
「何の内側?」
「お前奴らに尾行されなかったか?」〔註33〕
〔33〕≪“I’m deep in now ,” Lqney saiys, and coughs. ”Deep in what?”” They didn’t follow you?”≫Ibid, p. 4.
問いかけに対する解答は保留され謎だけが残される。
暗示が珍しいわけではない。それだけを取り出してみれば『モナリザ・オーヴァードライヴ』で言及した神話化作業の一変種である。しかしATPに現れている無数の暗示は素朴な神秘主義の発露とは違っている。
先に物語構成に参与する要素、参与しない要素を区別した。ギブソンは「暗示」をこの二分法に組み入れている。「(1911年に)全てが変化した」という一文で漠然とした出来事に時間的な印がつけられる。この段階で既に「暗示されたもの」は物語構成的要素になっている。この作業を繰り返していけば暗示の連鎖で描かれた歴史を構成することができる。実際にギブソンは「1906年」を漠然と示すことで1906‐1911年の連鎖を作りだしている。何も大きな「歴史」だけに適用されるわけではない。より短い「物語」にも適用できる。「タオ(道)」と呼ばれる人物は、4章から70章まで断続的に登場する。過去として提示されるのは幾つかのフラッシュバック、本名も明らかにされない。レイ・トウエイのセリフ「あなたのこと色々知ってる」は、その「色々」を言わせない口実となる。アイデンティティを最後まで不問にされているにも関わらず、彼は主要登場人物(ライデル、レイ・トウエイ、ハーウッド、フォンテーヌ)と次々に接触していく。この「タオ」の行動はATPの内部に小さな物語を‐暗示的に‐構成している。
(1)年号でマークされた「何か」がテクストの背後で進行しているようにみせること。(2)「何か」の組みこまれた登場人物を章から章へ、場面から場面へと移動させる。その「何か」がまるで作品全体を貫いた連続体になっているようにみせること。次のように定式化すれば、ATPの方法論的意図が明確になる。
明示的な物語構成的要素を前にしたとき、それが閉じた物語にならないようにギブソンはテクストを綴っていく。逆に暗示的な物語構成的要素を前にしたときはひとつの流れを成すように構成していく。様々な契機からもたらされる物語‐非構成的要素が全体を豊かにしていく。
この定式化は議論全体の再検討を促す。「マトリクス」概念を例に挙げたとき、個々の合理的な論理ユニット(論理構成的要素)を食い違わせて「合理的一貫性」を保留する技法を分析した。『モナリザ・オーヴァードライヴ』では個々の論理ユニットが神話化作用、神秘主義に侵食されたと考えた。この対比が不正確だったことは明らかだろう。ギブソンの試みは対「物語」戦略と同型なのである。『モナリザ・オーヴァードライヴ』の実践を定式化し直してみよう。非合理的論理ユニットを散りばめる途上で、そこにひとつの合理的連鎖を与えること、である。注意しなくていけないが『モナリザ・オーヴァードライヴ』の段階では「非合理性」が「神話」へとすりかえられている。この両者は決して等価ではない。その結果「非合理的な論理ユニット」の可能性を網羅するに至らないという結果が生じていた。
もう一度繰り返すことを許してほしい。
「テクストを前提とするアセンブラージュ/コラージュが単純なものではなく、同時進行的に複数のレベルで生じていることを確認。可視的な諸レベルでの考察。そうではない諸レベルへの展開。許されるのであれば、その総合を示唆」
「可視的な諸レベル」という表現は高い比喩性、曖昧さを含んでいる。誤解を避けるためにも若干の補足、議論を深化させてみる。
ギブソンは「文法」や「構文」、「論理」をより実体的に捉えており、文法的連続体や論理的連続体を考慮しながらエクリチュールを構成していく。それが我々の与えた定式だった。しかしいくら「実体的」と表現してみても物質的な意味での「可視性」を備えているわけではない。我々がここまで行ってきた分析も意味的構築物を形態として捉えるというより(やはり我々には見ることのできない)テクスト産出過程を追ってきている。
だが追跡の拠り所は常にテクストだった。「書く」行為はテクストに何か痕跡を残す、この仮説を黙認して思索を進めているのである。本論で挙げてきた引用はそのような「痕跡」だった。「論理的連続体」や「物語的連続体」について考慮する際、比較的取り上げやすい個所、「特異点」なのである(分析不能なほど複雑に構成された部分の方が遥かに多い)。
小説のテクスチャーは不可視かもしれないが決して均質ではない。ガラスやビニールが光の加減によって複雑な起伏を見せるように視点に応じてテクスト内部にも無数の特異点が現れる。特異点の検出作業はカテゴリカルな分類、諸レベルへ配分する作業と相補的に、並行的に行われていく。本来は恣意的、任意的だった諸カテゴリーが実際にエクリチュールを構成する要素(あるいはエクリチュールに内在する要素)と見なされた瞬間、その「物象化」、「素材化」が始まる。ある作家に固有な文体的特徴が作品中で連鎖している、そう考えた時「文体」のカテゴリーが生み出されてくる。我々が「可視的な諸レベル」と名づけたのはそのような「物象化」の経験を経た上でアクセス可能となった諸々のレベル、その総体である。
我々がギブソンの諸テクストに見出し、再構築しようしているもの、本論の最終的な目的地は「可視的な諸レベル」ではない。可視的諸レベルに寄り添うように存在している「不可視的な諸レベル」の構築である。
ギブソンにおいて「不可視性」は「可視性」と対等ではなく、「可視的諸レベル」の副産物として現れる。書くという経験を通じて諸レベルを対象化した上での高次な作業である。例えば「物語」をひとつのレベルとして理解する。その実際的機能が主に「明示」に依存していると理解し、体得する。次いでその「ネガ」である暗示へとエクリチュールを差し向ける。記述内の「論理」レベルで支配的な「合理性」をいったん了承した上で、その「ネガ」である非合理性コラージュに向かう。文法レベルを熟知しているからこそ、(遥か昔にチョムスキーによって生成文法から駆逐された)「非=文法的」レベル、対話、発話内で多用される「擬似=私的文法」構成を試みる。
『ニューロマンサー』原理主義者を当惑させかねない『オール・トゥモローズ・パーティーズ』。この作品では「可視的な諸レベル」の「ネガ」を「アセンブラージュ/コラージュ」していく技法が最も洗練された形で現れている。
本論のタイトルは「ネガティヴ・ハイブリッド」になっている。この概念はギブソン的戦略に基づくテクスチュアルな建築物を指し示すため仮に導入したものである。この合成語のうち「ネガティヴ」は次のような射程を備えている。
(1)テクストを自立的実体として捉えた場合の「ネガティヴィティ(否定性)」。これは上述したような「不可視的な諸レベル」の構築物を示している。
(2)作者「対」テクストという関係性で捉えられた「ネガティヴィティ」。テクストの「書き直し/転写」に言及した際、他者のエクリチュールの関係について触れた。「他者のエクリチュールに対峙しそれを媒介にして自分のテクストを生み出していく。その時に無媒介的な状態と異なった緊張関係に身をおくことになる。エクリチュールの他性がこのようにネガティヴ(cf.ヘーゲル)な形で自己のテクスト産出に関わっている。それを自覚的な意識の下で経験する」。この議論を発展させてみよう。ギブソンは小説創造という過程で所与とされているもの(=可視的諸レベル)を一旦対象化しネガティブを構成していく。文学的所与をそのものとして無媒介的に使用する際と対テクストの関係性が変わってくる。生み出されるテクストではなく、対テクストの関係性に現れている緊張関係、媒介的、参照的、批評的在り方を「ネガティヴ」と呼ぶこともできる。
(1)と(2)の両者は同じ現象を異なった視点から記述している。この「否定性」を新しい視点から考察することもできる。読み手「対」テクストの関係性である。
この種の関係性をどう説明すればよいのか?バルト批評はこの方法(と困難)の実践である。エルンスト・ブロッホも「痕跡/筋(「Spur」)」概念を軸に異なった方法を試みていた。本論では両者とは違う隠喩的アプローチを試みる。二段階の手続きが必要である。
(A)テクストを自立的物体として捉えた場合、建築的比喩で語りうる「構築物」となる(これまで用いてきた「構築物」という語、そして「寄木細工」など全てはこの隠喩の先取りである)。
ギブソンの手によるテクスト構築物(特にATP)を支えているのは力に従って/抗して作用するポジティヴな線(梁や柱、床、アーチ)ではない。「可視的な諸レベルが非連続体を指向する」の定式を隠喩で転換してみればはっきりする。柱や梁は確かに存在している。しかし力線だったはずのものに沿って断片的に存在している。これらの力線が構造を「支えていない」わけではない。「弱い形」でしか支えていないのである。
ATPでテクスト構造を「強く」支えているのはネガティヴの領域である。可視的な力線を原型とし生み出された領域。近代の日本美学が定式化を試みた「間(ま)」の概念と比べてみることもできる。建物を積極的に支えているのは柱や梁ではない。即物的、形態的思考から逃れてしまう空虚なのだ。そんな議論である。このアナロジーは単純な意味では成り立たない。ギブソンのテクストであらゆる「否定性」は「肯定性」への批判的参照から生み出されている。その意味で「ポジティヴ/ネガティヴ」の関係は対等ではない(=ポジティヴの優越性)。もし「間(ま)」が「力線」と対等である、優越していると前提すれば、「間(ま)」美学とのアナロジーは崩壊する。次のように言い換えれば状況ははっきりするだろう。
ギブソン著作で観察されるネガティブな連続体。それは「日本的美学」と呼ばれるもの(実在しているかどうか本論では重要ではない)を外部から参照し、批評的に対象化、物象化し、再構成してみせた複雑な「フェイク/パロディ/オマージュ」である。ギブソンは「シンガポール」や「ジャパン」を語る。でも表面的な参照をどう言っても始まらない。ギブソンの「オリエンタリスム」が何か分析、批判に値するのはこの地平である。
(B)建築的隠喩を元にすれば「読み手」の項を導入するのは楽になる。迷宮に似た、それ以上にたちの悪い建築物を順に巡っていく遊歩者。この構築物は意想外の罠に満たされている。建物らしきものはある。内側を進んでいる感覚もある。そのリアルさの方がフェイクなのではないか、いつしか自問しはじめている。etc.
ギブソンの芸術的背景を考慮に入れてみればいい。このような隠喩を「ハプニング」として読み替えることに抵抗はないだろう。「ポップ・アートとネオ・ダダの正当な嫡子」と既に言ったはずだ。50-60年代の米芸術思潮がもたらした戦略、偶発的な挑発、挑発的な偶発がしっかりと息づいている。
エクリチュールを取り巻いている感性や悟性といった領域を対象としている。テクスト細部へ織りこまれた諸ハプニングに対し読み手がどう反応するか試されている。対応の仕方は個々それぞれだろう。「物語」をなおも前提とし諸ハプニングを回収していくことはできる。刹那的カタルシスに身を浸すのも自由である。全てを軽やかな冗談と見てシニカルに笑うも良い。我々が恐れ、避けようとしてるのはハプニング全てを見なかったことにして大文字のギブソン神話に腐心することである。
ギブソンの実践は大それたものではない。本を読むという一見素朴な経験が問い直されている。もう一度強調しておくのも悪くない。ギブソンが指向しているのは独裁的「物語」の閉鎖空間ではなく、「予言者」の特権を維持することでもない。ジャンク化した文学の廃墟から再びオープン・スペースを築きあげることである。良い小説とはそういうものではなかっただろうか?
議論はここで終結する。「我々」という偽の言語主体はようやく解きほぐれていく。長々と綴ってきた論とやらは証明を目論んではいない。冒頭の「議論的プログラム」はだまし絵だったらしい。どの一行を取っても分析的ではない。経験と直感を頼りにし、一貫した視座をギブソン著作に与えようとしてみた。「ではその視座は何なのかね?」と聞かれても答えることができないのだ。ラフスケッチした「ギブソン的形態」は確かに異形である。ベストセラー作家の著作がこんな畸形なはずはない、そう考えるのも道理である。これまでの議論全てをレトリックと見なす人もいるだろう。「途方もなく自明なものを言葉にしている」と思うかもしれない。筆者自身は後者である。
最後に。本論のタイトルは「ネガティヴ・ハイブリッド」となっている。複合語の後者にはあえて言及しなかった。「ネガティヴな諸レベル」というのは本論の「視座」の一部だが、それが「ハイブリッド」になるかどうかを問い始めたときタイトル全体がある仮説を誘発する。テクストの内部、様々なレベルでネガティヴな連続体を構成するのは難しくない。この連続体(非文法的連続体、非物語的連続体etc.)がそれぞれ独立してコラージュされているのか(=生物学的な意味での「キマイラ」)、混じりあって高次の特殊な連続体を構成しているのか(=「ハイブリッド」)、二者択一が残される。判決は下せない。この問いかけは本論の枠組みを超えている。徹底したコラージュ主義者である作家の肖像を思い出してみれば作品のほのめかす答えは「キマイラ」、と予想できる。でも意味をめぐるネガティヴ全ては結局ひとつに収斂するだろうという予感、期待がある。議論というのは所詮フィクションである。自己矛盾を引き起こす異物を一つくらい組みこんでおくのも悪くない。「ネガティヴ・ハイブリッド」概念とは、「実はこれらのネガティヴは弱い形で混じり合ってハイブリッドになってないだろうか」、そんな果てしない自問を収斂させていく地平である。
] Noirs [ - フランスのもう一つの文学 by Luj, 2008 - 2010