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慎ましやかな宝石
ジャック・ビュロ作

〔初出〕コニャック市文学サロン
『ポラール&Co.』
2007年


(※ 冒頭16段落目までは座談会(サロン)での
短編競作時に各作家に
共通課題として与えられた部分です)


 部屋の奥で女は腰を下ろした。

 5分前、スポーツバーが息を始めていた。光は黄色。テーブルと椅子が単調に配置されテラスになろうとしていた。BGM代わりにグツグツとした音の波、目が覚めているかどうか怪しいウェイターはあくびの合間に「大丈夫」と無駄な努力をしている。 

 自分で席を選んだ。この2週間、いつもの朝と同じ。いつも変わらない席。掃除がは昨日までさかのぼりそうなテーブル、壁と接した角の所に落ち着いた動きでハンドバッグを置いた。その隣に黒いショルダーバッグ。コートを折り畳むと隣の席に乗せておいた。 

 時計に一瞥。8時5分前。もうそんな時間だった。 

 時間の余裕はあった。考え事があちこち散らかっていく。日々目に留まったもの、何気ない場面、人生のショーウィンドウ。 

 過ぎていった時間、形となった時間は散り散りとなって遠くに消え去っていた。今朝の女は特別急いでいるという訳ではない。家を出る時は爪先立ちで。いつもの通りだった。台所テーブルにメモだけは残しておいた。 

 「7時半に仕事場に着かないといけないので。又急な用件。今晩ちょっと買い物をしてもらえると嬉しいかな。また後ほど。キスキスキス。ディアンヌ」 

 ジャン・クロードは何も気がつかないまま。このまま何事も気づかない。この時間帯だと家を出ようとしている最中。8時半には銀行の窓口の向こう側にいないといけない。単純に生きている人って何て幸福なのかしら。 

 ブレスレット型の時計に目を一度。8時10分。赤ワイン前に陣取った早起きの客二人がこちらをこっそり見つめている。正面ではバーテンが目を閉じたままグラスを拭いていた。眉をひそめた。あの人が遅れている。随分と珍しい話だった。急に鼓動が早くなり始める。本能の動き、ほっそりした手はズボンの右ポケットに滑り落ちていく。金属の冷たさで気が落ち着いた。ショルダーバッグを手に取った。開いてみる。20回同じことを繰り返しているのだけれど中身をもう一度確かめてみた。 

 唇に浮かんだかすかな微笑。呼吸が落ち着いてくる。全て揃ってる。鍵束にリスト、地図、犬の首輪。 

 バッグをゆっくりと閉めた。ハンドバックの脇に戻しておいた。クリスタルガラスでも扱っているようなゆっくりした動きで。そろそろ来るでしょう。この時間なら。

 突然うなるような音がして飛び上がりそうになった。 

 思わず愚痴が口をつく。こんな時間に携帯に電話してくるなんて一体誰。ジャン・クロードじゃないのは確実だった。携帯には連絡してこない、この手の機械に恐怖すら感じてる人だった。 

 画面が光っている。知り合いからではなかった。 

 カバンを開く。気のない「もしもし」、それから沈黙。 

 視線が不意に強張った。女は… 


 …この声が一体どんな顔をしているのか想像してみた。電話の先で誰か鼻先で笑っていた。

 「どうも。私のことは知らないはず。…こっちはよぉく知ってるんだけどね。共通点、あとは清算しないといけない点が幾つか」 

 硬い声音。なれなれしい口調に脅迫の響きがあった。反撃しようと口を開きかけたが…向こうの女は既に電話を切った後だった。 

 誰だろう。納得しなかったお客さんかも、たぶん。今の仕事に付き物ではあるのだけど。 

 この数年ディアンヌはピアスの穴あけを仕事にしていた。ノウハウは持っていたし、できるだけ気は遣っているつもりだった。だが失敗や挫折、面倒事と無縁という訳にはいかなかった。穴を開けてから完全に固まるまで9ヶ月かかるのだから。 

 模造宝石販売で悪戦苦闘を続けた後、ディアンヌは丁度流行になっていたピアシングを発見、愛好家が肌に埋めこむオブジェ制作に乗り出した。豊かな想像力、手先は器用だったし業界でそれなりの知名度もあったので、ギャラリーや専門店で商品を飾ってもらう時も照れる必要などなかった。生計を立てる程度の収入にはなってくれたし、人から羨ましがられる「宝石職人」の肩書きを自慢できるようになった。 

 大きな物音で考え事が中断。ビストロの扉が開く。カールが入ってきて奥のテーブルまで歩いてくる。途中でギャルソンに挨拶をひとつ、頭を上下させたのが返事代わりのようだった。 

 男はディアンヌの愛人だった。 

 2ヶ月前、スポーツバーのテラスで声をかけられた。一目惚れの一撃、パリで銀行窓口を担当している旦那の下で無駄に時間を費やしていた人生が一挙にひっくり返る。そこそこの美形、男には自分流の動き方、独特の表情があり、人を見下すような態度があった。売れない芸術家を魅きつけずにはいられなかった。あの日二人は一緒に昼食を取り、その後一角で知り合いに貸してもらった部屋で午後を過ごしていった。快楽で天国行き。祭りはその後も続いていた。他の事はどうでも良くなっていた。 

 男は腰を下ろす、生ビールを注文、視線が疑問符になっていた。 

 「…今晩の仕事用。奈津子と約束があるの。最後の確認だけして宝石を埋めこもうかなと。ひとつの企画をきちんと実現しようと思ったらそれなりに時間をかけないと」 

 「なるほど。全部揃った?」 

 「まぁね」、女はショルダーバッグを開いて鍵束を差し出した。 

 「予定通り行けば…今晩か」、男が何か言いかけた。それ以上の言葉は出てこなかった。言葉にしてしまうと。どこかに迷信があった。 

 うなずいた女。 

 計画を立てたのは男だった。 

 2ヶ月前のある午後、服を着ながら女は仕事の話を始めていた。パッチワークになったクッションの窪みに後頭部を横たえ、裸でベッドに寝転がっていた男。小さな葉巻を吸いながら天井を見つめていた。女の話など上の空でしか聞いていなかった。仕事がどうこう言っても胡散臭い儲け話があるようには見えなかった。「ピアスに深入りしてる連中って常識外れで一文無しが多いの」が女の言い草だった。ステンレス製のリングを留める、唇に穴を開けるなら40ユーロで済む話だった。カールはといえば同じ界隈の仲間二人と手を組んで、一晩で建築中の家から1トンを超える銅線を盗んできたところだった。中国人と一緒に釘を扱っている精錬業者に売りつけると9000ドルが手に入った。 

 「一番のお得意さんが奈津子っていうの」、下着を調整しながら女は言葉を続けていく。「エドガー・キネ通りの芸術市場、知り合ったのは日曜だった。寒い一日だったな。最新作を展示してたのね。リングボール、 ストレートバーベル、バナナバーベルにラブレット。ベロア製の宝石箱入り。人目を引くはずなんだけど足を止めてくれる人が誰一人いなかった。すごい悲しかった。安物が2、3個売れただけ、場所代を払うので精一杯。モンパルナス・タワーの手前だもの、舗道の一角を借りるだけで目が飛び出るような金額を取られるの。諦めて片付けようとした時に日本人の女性が一人近づいてきて…」 

 「…それで」、退屈し始めていた男が促した。 

 「綺麗な女性だった。40の手前位。肌がとても綺麗で。服とコートはサン・トノレ界隈で買ったんじゃないのって。他にも胸の大きく開いたデコルテ着てたんだけれど、宝石の首輪を合わせていて。本物の宝石。こっちも素人じゃないし一目で分かった、金の有り余ってる人種だって」 

 この言葉で男が目を開いた。座り直すと裸体を覆った。露出したまま金の絡む話をするつもりはなかった。ブラジャーをつけた女はストッキングに取りかかる。鏡に一度目をやった。 

 「ピアスの穴あけを頼んでいい?そう頼んできたの。”受けてもらえると嬉しいんですけれどね。あなたの作品とても気に入ったので。手がとてもエレガントだし指もほっそりしているから細かな作業に向いているんじゃないかなって”。誉められてつい嬉しくなった。当然受けたわよ。翌日ヌイイまで足を運んで。広い庭に囲まれた豪邸だったのよ」 

 「その金ってどこから来てるのかな」、男が問いかけた。 

 「旦那さんがソニーのヨーロッパ支社長なんだってさ」 

 男の唇から意味ありげな口笛が放たれる。 

 「…化粧部屋って呼ばれている場所に案内されて。右耳の耳たぶに二つリングピアスの穴を開けた。舌先にもう一つラブレット。あっというま、痛みもなく完了。とても喜んでくれたのね。色々とアイデア出してくれて、その流れで犬用の首輪も一つ注文してくれたの」 

 「犬コロ用ピアスってか」、口調に皮肉がこもっていた。肩をすくめた女。 

 「違うってば。革の首輪をシルバージュエリーで飾るのよ」 

 吹き出した男。それから真剣な表情に戻って。

 「犬は見たのかい?番犬っぽい奴、それとも格好いい奴」 

 「まだ。首周りのサイズを教えてもらっただけ。…サイズからすると化け物って感じではないかな。もちろんその仕事も受けた訳で。さらに提案があったの。私がデザインしたコレクションを純金で作り直してみて、って。"当然だけど、純金は私が持ってくるから"だって。"条件がひとつ、作業は全てこの自宅で行ってください。話が早いし細かな部分を詰めていくこともできるので"」 

 「君はもう現地に足を踏みいれたって訳か」、不意に口を挟んできた。驚いた顔の女。 

 「何で」 

 「別に、聞いてみただけ」 

 「次の日、ピンセット、ハサミ一式、消毒セットまで仕事道具ごとお引越しよ。奈津子さん自室の隣にある小部屋に居座らせてもらったの。近くでずっと作業を見てくれた。慣れた動きに向こうが驚いていたくらい。どんな技法かって質問があった。完成したばかりの純金製ラブレットを指差して"両端にダイヤつけることって出来ます?"って聞いてきたの」 

 「ダイヤ?」 

 「こっちが驚いていると部屋に戻って4個の素晴らしい石を持ってきた。傷一つなし、綺麗にカットされていた」 

 「石ってどの位の大きさ」 

 「それぞれ3、4カラットくらい。玩具じゃないよ。乳首の先につけたいって言うから余計感動しちゃった。つけてみると堂々とした風格。胸のラインの綺麗さを引き立たせる感じ」 

 男は口調は夢見がちだった。 

 「その女…15カラットのダイヤを乳首につけて歩き回ってるのか。他に何か注文は?」 

 「まぁ…かなり微妙な仕事。クリトリスにピアスの穴開けて欲しいって」

 「完璧いかれてるな。それも受けるのか」 

 「もちろん。アドバイスとしては純金、プラチナ製、ダイヤを2個嵌めたバーベルタイプ」 

 再度口笛が放たれる。女の言葉を遮ると: 

 「ダイヤを持ってる?」 

 「まさか。石はヌイイにあるって言ったでしょ」 

 「持ち出すって可能?」 

 首を左右に振った女。何てこったい、顔をしかめた男。女が話の続きをしている間も男は黙ったままだった。細かな話など聞いてはいない。性器にピアスの穴とやらに全く関心はなかった。穴を開けるのは陰核を包んでいる部分…男は話を切った。 

 「ディアンヌ、話を聞いて。良い計画が」 

 男の説明が始まった。自信満々の様子だった。だが説明が続くにつれて、女の方には疑いが強まっていった。危険度が高い。厄介な部分が多い。何より日本人女性に一杯食わせるという発想が腹立たしかった。男が語気を強めてくる。脅迫だった。議論が煮詰まっていく。男が漏らした台詞にふと可笑しくなった。「心配するなって。僕はその手の専門だから」。実際カールが専門にしているのは怪しげな取引き、汚い仕事だった。それでも生き延びていくのが精一杯だった。 

 断ろうとしただが…最後の最後は根負けしてしまう。 


 ポン・ドゥ・ヌイイ駅で地下鉄を降りる。ジャット島の方に向けて歩き出した。道すがら、カールが夢想していた計画とやらを考え直してみる。リスクが高い。細かな配慮が欠けている。確かな計画には思えなかった。一方で彼女自身は完璧に動いていった。鍵の型を取る。屋敷の地図を完成させる。ここまで出来てしまえば全て予定通り。18時にはカールとスポーツバーで再度待ち合わせになっていた。

橋を渡ろうとしていると携帯が鳴った。 

 「もしもし…」 

 「こんにちは。お散歩中かしら。その近辺って良いでしょう。川があって緑があって…その辺りで色々仕事があるわけね」 

 知らない女からの電話は切れた。その場に凍りついたディアンヌ。携帯を耳に当てたまましばらく動けなかった。何か言いかけたが言葉は喉に詰まったままだった。 

 誰だろう。飲み屋を離れてからこの問いかけが頭でグルグルし続けていた。両親に内緒でへそピアスを開けた女の子の母親。最初そう考えた。穴が固まるのが遅く、痛みが続いて止まりそうになかった。しかし奥深い所でこの説明は正しくないという気はしていた。怖くなってきた。誰か後をつけてきている、そんな気がして振り返ってみた。行き止まりの道を目で探っていく。誰もいなかった。物音ひとつしていない。停車中の車もなかった。目に見えるのは木々と花々、洒落た建物、厚い壁に守られた豪邸だけだった。 

 奈津子の家まで100メートル。女は走り出していた。恐怖感で胸が詰まりそうになる。鉄柵前に辿りついた時に息が切れていた。それでも気は楽になった。後ろに目をやってから指先でインターホンを一度。カメラが向きを変え、キュンキュン音を立てながらピントを合わせてくる。電気ゲートがゆっくりと、所定のスピードで開き始める。門を抜けた時、ディアンヌは独り言で「カールの弱点はこれかしら」と呟いていた。今晩、嫌な動きをするこのセンサーの目が光っている中で、漆喰で滑らかに塗り固められた凹凸ひとつない壁を男は手首の力だけで乗り越えていかなくてはならない。無理だと言ったのだけれど、カールは手で払うように反論を打ち切った。 

 奈津子が芝生で待っていた。互いの誉め言葉が挨拶代わりだった。女の態度には愛情がこもっていた。お返しという訳で奈津子からも「綺麗ね」、「優しいのね」、「すごいノウハウね」、誉め言葉が途切れる事がない。今では女友達扱い。「ナツ」の洗練、優しい動き、時に意味ありげな動きに当惑することもしばしばだった。こんな感情を抱いた経験は今まで数えるほどしかない。今回の一件での自分の役割を考えると後悔が沸いてくる。それも驚きだった。出来るなら時間を前に戻したかった…残念なことにカールが入りこんできていた。、大計画を成功させようとする野心が入りこんでいた。何よりカールに対する抑制の効かない獣じみた肉欲が絡んできていた。 

 奈津子の言葉に甘え、化粧部屋に腰を下ろしたディアンヌ。「首輪を見せてもらっていいかしら」。そう頼んできた。出来栄えは並以上。浮彫りを刻んだ革にあしらったシルバージュエリ−。狼の頭部にキマイラ、一角獣…幻想に満ちた架空生物たち。奈津子が嬉しそうな様子で手を叩いていた。ディアンヌを褒め称え「ホコ」という名前を呼んだ。それまでベッド代わりにしていたクッションから一頭の狆が飛び出してきた。散々撫でられ、触られたりした挙句に寝に帰っていく。ご主人様が首に付けてくれた物には関心がなさそうな様子だった。 

 二人でお茶の時間。甘い物をつまみながらお喋りタイム。ようやくディアンヌの待っていた質問がやってきた。 

 「どんな流れになるのかな。まだ決めかねていて…正直結構不安な気分。今までにご経験は?痛いのかしら」 

 女を安心させていく。最新のやり方を説明していった。

 「下陰唇の部分に穴を開けます。それからリングピアスや小さな蹄鉄で結んでしまうの」 

 恐ろしさで叫び声あがる。ディアンヌは説明を補っていった。 

 「ローマでは普通に行われていた慣習なのね。奴隷が一切の性行為が出来ないようにって。ナツ、後の選択肢は2つ。皮の部分、それともクリトリスそのものにピアスするか」 

 女は怖くなったようだった。決断しかねている。半ば諦めかけたようにも見えた。女は積極的に話を持ちかけていく。奈津子の代わりに決断してあげる。向こうもそれで満足なようだった。 

 「クリトリスを横断する形でピアスしてあげる」 

 「…横断?」 

 「宝石をつけていても気にならないし、新しい体感、今まで知らなかった激しい刺激が入ってくる。セックスの最中にね」 

 身を乗り出してきた女。 

 「火山になるのね」、女は日本語で「カザン」と言った 

 「大噴火なんだから」、可笑しくなって笑い出したディアンヌ。 

 沈黙の数秒。ディアンヌの表情を暗い影が通り過ぎていった。不審気な表情で女が尋ねてこた。 

 「どうしたの。何かあった」 

 「別に。何もないんだけど」 

 ショルダーバッグを開いた女。一瞬ためらって一枚の紙を取り出した。

 「それで。気をつけなくちゃいけない一覧がこれです。どれも守ってもらわないといけないことばかり」

 女が目を通し始めた。頷いてから一つ聞いてくる。 

 「一日に二度傷口を洗浄。無菌液なんて…家にないんだけど」 

 「持ってきてあげる。明日、風呂に入る時には軽く塩を加えたお湯を使ってください。完治するまで5週間もかからないから」 

 道具を準備し始める。奈津子の方も準備が整ったようだった。一撃でクリトリスに穴を開けた。痛み。激しく鋭い痛み。女は目に涙を浮かべながら叫び声を上げた。呪いの言葉が漏れた。落ち着いてからバーベルピアスを嵌めていく。鏡を持ってどんな様子か見れるようにしてあげた。奈津子は微笑んでいた。宝石箱となった女性器。曇りひとつないダイヤモンドが神々しく輝いていた。 

 「しばらく動かないように」の警告。休憩を利用して部屋を調べていった。宝石の置き場所に凝っている様子はない。場所を地図に記しておいた。

 万事整った。ここまでたどり着くことが出来たなら、宝を見つけるのにてこずることはありえなかった。


 午前2時に決行という話。もう朝の4時半だった。 

 気が高ぶっていた。数時間ベッドに横になって待ち続けていた。男の匂いが残っている枕に顔を埋めながら。小さなテーブルに置かれた携帯電話は沈黙を続けている。耐え切れなくなった、一冊本を手に取った。すぐ放り出す。ウィスキーをグラス一杯分流しこむとグルグル部屋を回り始める。壁を乗り越えるのに四苦八苦している男を想像してみた。次に目に浮かんできたのは敷き詰めた砂利を進んでいる場面。靴がめりこんでいく。砂利が軋んだ音を立てて奈津子が目を覚ます。道を上手く見つけたのか。二階まで上がっていかないといけなかった。正しいドアを見つけ、化粧部屋を抜けていかないといけない。首輪をしたあの犬がどんな反応を見せたのか。あまり賢そうな感じではなかった。呼ばれても聞こえない。ドッグフードを貪る時、花に小便をかける時しか動かない感じの犬だった。見知らぬ男が現れるのを嗅ぎ取って犬は犬なりに飛び跳ねたりしたのだろうか。 

 午前6時。疲労困憊のまま落ち着かない眠りに落ちていく。 


 8時15分に電話が鳴った。意識を取り戻すのに一苦労。 

 「もしもし」 

 「おはよう」 

 あの声、あの怖い声でまた。 

 「あんた達の計画は見事に失敗。カールは日本人女に撃たれて殺されたってさ。フランス・インフォでそんな話をしてるよ。ソニーのお膝元、橋近辺、ジャット島なんて警官だらけの場所で押しこみなんて二人ともどうかしてる。カール君のこなせる仕事じゃないのにね。どうせあの人は負け組なんだから。それでも好きだったのに」 

 続きは聞かなかった。手から落ちた携帯が床に落ちて割れた音を立てた。何も手を打つことができなかった。パニック、哀しみが入り混ざって頭が動かない。体中がピクピク痙攣していた。 

 あの人が死んだ。 

 月のない爽やかな夜、ヌイイで何が起こったのか考えてみる余裕が出来たのはお昼を過ぎてからだった。 

 奈津子は眠ってはいなかった。痛みに耐えていた。不意に階段から聞こえてきた物音、キシキシキシ…枕元のライトを点ける勇気はなかった。ナイトテーブルの引出しを開く。ワルサーP88を取り出した。使い方は旦那の健二に教えてもらっていた。足音が近づいてくる。誰かがドアノブに手をかけた。目を覚ましたホコが吠えていた。女も怖くなって叫んだ。体が震えていた。引き金に力をこめ、扉に向け弾倉が空になるまで撃ち続けた。ここまで想像した段階で罪悪感が襲ってきた。 

 全ては数時間前、奈津子が術後の注意事項を読んでいる間に決まっていた。自分の考えをまとめることができなかった。男からの頼み事が頭を行ったり来たり。「ディアンヌ。忘れないでね。強く言っておくんだよ。僕が着いた時にその女が熟睡していないと」 

 奈津子が顔を上げた。こちらの目を深く覗きこんできた。 

 「今晩どうしても睡眠薬を飲まないといけない?あまり好きではないの。どう思う」 

 「さぁ来た」の独白。「正念場ですよ、と」 

 一瞬ためらいがあった。回答は一番深い部分から湧き上がってきた。「それ飲まなくていいよ…どうせ効かないし」 

 この言葉で一日中のしかかっていた何かから解放される。奈津子の表情も一瞬で晴れ上がった。何か理解した、そんな風に輝き始めた二つの瞳。 

 「ベッドに横になって」、そう言ってから道具の消毒に取りかかった。 


Les Bijoux discrets / Jacques Bullot
"Polar & Co, Le Salon", Cognac, 2007.



] Noirs [ - フランスのもう一つの文学 by Luj, 2008 - 2010