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ダニエル・ダルク/鬼火
〔第1ヴァージョン〕
ジャンニ・ピロッジ作
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〔初出〕 2008年1月
この「ファースト・ヴァージョン」は
「タクシー・ガール.オルグ」「ダニエル・ダルク.コム」
の掲示板を通じて愛好家の間で
流通したテクストです。
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メンバー:
ダニエル・ダルク (ヴォーカリスト)
ミルウェイズ・アマッザイ (ギター)
ステファン・エラール (ベース)
ピエール・ウォルフソン (ドラム)
ローラン・サンクレア (キーボード)
パスカル (ギター)[1979]
フィリップ・ルモンニュ (ベース)[1983-1986]
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【第1部】
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「俺の名はダニエル・ダルク。女優ミレーユ・ダルクとは縁もゆかりもないけれど。実の名前ですらない。本名はあまりにユダヤであまりにロシア、面倒臭すぎだった。うちらのメンバーが初めて顔をあわせたのは高校だった。正確に言えば高校の向かい側、ビールを飲みながら、50曲ものディスコ・ソングに迷子になっていたディランを聞いていたあの喫茶店だった。店長がカウンター奥にエロ本を隠していてね、表紙にはエロエロのスウェーデン女が写っていた。胸の合間にはゴシック文字の『タクシー・ガール』。おかしかったよ。これってグループの名前にぴったりなんじゃないかって気がしたんだ」
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最初は4人。
ミルウェイズ。ローラン。ピエール。ステファン。
1978年のパリ。
バルザック高校。自分たちの小さなパンク・バンドがもっと女性受けするように4人の若者がまともなボーカリストを探していた。ダニエル・ダルクを見つけ出す。美形な上に動きに魔性があった。深い憂いを帯びた声、気の強さが伝わってくる。偉そうなくせに自分自身は信じちゃいなかった。読書家で知性派(サリンジャー、ジェリー・ルービン、パトリック・ユデリンを読んでいた)。頬のこけた顔、他の連中より髪を短くしていた。厚い唇に浮かんでいたのは機嫌を損ねたナルシスの表情だった。
スラブ系の本名を古臭いフランスの名前で隠してしまう。古きよきフランス風にダルク(ダーク)。言ったもの勝ちだった。身近な連中にとっても「ロズム」という苗字は妙な響きだった。格式ばったロシア系白人家族、音楽の教養を身につけてきました風の響きがする。ロシア革命を逃れ、後に残してきたロシア正教会の残骸はソヴィエトによって工場に、トラクター製造所に変えられてしまいました、そんな響きのする名前だった。
これで5人。
ダニエル・ダルク、ヴォーカル。
ミルウェイズ・アマッザイ 、ギター。
ローラン・サンクレア 、キーボード。
ピエール・ウォルフソン、ドラム。
ステファン・エラール 、ベース。
タクシー・ガールの始まりだった。
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18区。ピガール。
ある晩クラブ「ブール・ノワール」の若き辣腕マネージャー、アレクシス・キムランがグループに目を留めた。マルコム・マクラーレンとティエリー・アルディソンに影響を受け、アスファルト・ジャングルとメタル・ユルバンをプロデュースしたところだった。録音スタジオ「ローズ・ボンボン」のプログラマー、利益の1/3は彼のもの。聞いたこともないタクシー・ドライバーの毒々しい音楽に虜になってしまう。音楽そのものには色々な影響が見てとれる。クラウトロックの放射能が届いていた。デュッセルドルフ。クリング・クラング・スタジオ。『ベルリン』。ハンザ・スタジオ。アレクシス・キムランはグループのマネージャーになる。宣伝文句を見つけ出した。「タクシー・ガール、第3次世界大戦前の最終バンド」
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1979年。
TV番組「マネキン」での初映像。小綺麗にまとめ、皺一つない赤シャツ(クラフトワークのパクリ)に身を包んだお稚児さんたち。マネージャー、アレクシスのアイデアだった。お子様バンド、流行前のボーイズバンド。一点を凝視しつづけるダニエルの視線は奇妙なほど浮世離れしていた。中近東をイメージしたシングルのジャケットはジョン・カーペンター監督の映画『呪われた村』を加工したもの。猫の瞳に映った人の顔をクローズアップ。スタジオ「ローズ・ボンボン」でバンドメンバーは一年を過ごすことになる。第2弾シングル「チャイニーズ・ガーデン」の受けも良かった。舞台がかった動き、実験色に東洋指向。これでいける。クラフトワークともスト−ジスとも違う第3の道を切り開く。ダニエルが夢見ていたのは最後のパンクだったが、バンドの残りメンバーがエレクトロ路線に差し向けようとする。ライブの音はレコードほど繊細ではない。ダニエルの痛々しい動きはジーン・ヴィンセント同様エゴン・シーレにも影響を受けていた。バンドはツアーを続けていく。パリ中心で。田舎なんて相手にしない。お返しはやってきた。「ホモバンド」、そんな呼び方で。
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1979年12月10日。
トーキング・ヘッズの前座。
見た目で言うならば、コートを羽織ったダニエル・ダルクに次いで人目を引いているのはサンクレアだった。ブライアン・ジョーンズ風のマッシュルーム・カット。袖飾りのついた衣装をまとった伊達男。ギターは美形のミルウェイズ、ネクタイを締め、エレガントな赤シャツのスターリンといった面持ち。この晩のステージ、「パラス」に集まった若者の集団を前に、ダニエルは血がほとばしるまで手首を切ってみせる。
お子様バンド?
ダニエルはシャツの袖を引き落とす。カッターで腕を切りつけた。
歌いながら両腕を振ってみせる。最前列の観客まで血が飛び散っていた。
恐ろしさにどよめいている客たち。
血がかからないようミルウェイズは必死だった。
引きつった指が押さえている弦から離れた。
オルガンを弾いていたサンクレアと視線を交わす。
サンクレアは「素晴らしい」の表情だった。
何てもありの状況。どこまで行くのか。
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パリ、1980年。
スティンキー・トイズ。ビジョー。スターシューター。マルキ・ド・サド。パリのロックシーンでは先の見えない若手グループがひしめいている。押しのけてでも目立たないといけなかった。3枚目のシングルがちょっとした盛り上がりとなった。
「男の子を探して(シェルシェ・ル・ギャルソン)」
名前を見つけて。
匠の技、ディスコタッチの作曲はバンドの才人、サンクレアの手によるものだった。ダニエルは誰も読んでなさそうなロマン・ノワールから歌詞を借りてくる。売り上げは30万枚。テレフォン、スターシューターといったバンドと同じ地点からスタートを切ったホモ・バンドにしては悪くなかった。ダニエルは相変わらず何かを凝視、人を不安にさせる目つきだった。コンサート、TVショー、グルーピー。女の子だけではなかった。
途上でベースのステファン・エラールが離脱。
4人になった。
ダニエル、ミルウェイズ、ローラン、ピエール。
巨大な画面に
一滴の血。
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『シェルシェ・ル・ギャルソン』
/タクシー・ガール 〔1980〕 |
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81年7月。
アパートで見つかった一青年の死体。隣人が匂いで気がついた。パリに死す。扉の向こう側で青年は腐敗を始めていた。床には注射が一本転がっていた。ピエール・ウォルフソン、安らかに眠りあれ。バンドにとって唯一のヒットとなる「男の子を探して」、あの神経質で超ハイテンションなリズムは彼のものだった。スーツ姿のメンバーに衝撃が走る。順風満帆の只中での一撃。この後タクシー・ガールにドラマーはいなくなる。ピエールが消えたことで、厄介な3人のバランスをとっていた要素がなくなったことになる。
ダニエル、ミルウェイズ、ローラン。
3人になった。
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81年9月。
『切腹(セップク)』。バンドが残した唯一のオリジナル・アルバム。
スタジオ「アクアリウム」でのレコーディング・セッション、一度はピエールの死で延期になったのが再開される。パテ・マルコーニ社との契約を破棄、自身のレーベル「マンキン・レコード」を立ち上げる。資本援助はヴァージンだった。レコード製作のため、ダニエルとミルウェイズは元ヴェルヴェットのジョン・ケールを呼ぼうとした。さすがにそれは無理だったのでマネージャーのアレクシスがストラングラーズのベーシスト、ジャン=ジャック・バーネルを確保してくれた。
楽曲「罪の通り(アヴニュ・デュ・クリム)」はローズ・ボンボンで出くわした軟弱そうなギタリスト(後にリタ・ミツコを結成するフレッド・シシャンである)の曲を展開したものだった。これが荒れたレコーディングになった。エゴのぶつかりあい。二組の対立になった。バーネル&サンクレア対ダルク&ミルウェイズ。バーネルは歌詞もギターも無視してサンクレアのオルガンを強調しようとする。やりすぎだった。
それでもコンサートがあった。81年末、『切腹(セップク)』発表に数ヶ月先立つ英国ツアー。バンドはストラングラーズの前座を務めることになる。ストーンズとヴェルヴェット、原曲の面影をとどめないカバーを演奏。罵倒や脅迫は何するものぞ。黒服の警備員の前、ストラングラーズを待ち構えている連中が唾を吐いているのも気にしない様子。ファルシファ社製オルガンの奥でサンクレアが鍵盤を叩いている。中指を立て、興奮する自分を押さえつけようとしていた。
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『セップク』
/タクシー・ガール 〔1982〕 |
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82年1月。『切腹』発表。
シールになったジャケット・カバーはモンディノがデザインしたものだった。中身を出そうとするとカバーを破らなくてはいけなかった。内容はといえば眩暈がするほどドス暗い、それでも輝かしいアルバムだった。シングル「夜の軍隊(アルメ・ドゥ・ラ・ニュイ)」は無難な内容だった。売上げは言わぬが花。発売されたばかりにも関わらずこの作品は80年代を横切っていく全てを否定していく内容になっていた。
ツアーは続いていた。ベルギーへ。次いでオランダへ。XTCの前座。ありえないコンサートは82年5月「カジノ・ドゥ・パリ」で行われたステージで最高潮を向かえていく。81年に始まったツアーは83年まで雪崩れこんでいった。ペースを維持するために薬物が続いていた。回数も増えていった。中毒患者たちの口論が延々と繰り返されていく。3人での曲作りは不可能になっていた。互いの距離が広がっていく。
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83年4月。
3人が揃って写っている最後の写真。短い金髪姿のサンクレア、不機嫌そうな顔をしている。この数週間後にタクシー・ガールを脱退。「役立ずの連中を飼っておく余裕なんざねぇよ」、顔をしかめたダニエルの説明がこれだった。バンドを離れたサンクレアは自身のユニット「V2」を結成。成功はしなかった。タクシー・ガ−ルの音楽の核はオルガン奏者サンクレアだったのであり、脱退でメロディ部分にひどい亀裂が入ってしまう。この後に発表されていく楽曲は誰の曲か分からないくらいだった。本当に同一グループなのか?
2人。
ダニエル、ミルウェイズ。
グループは2人組まで縮小されていた。最先端でもなくなっていた。タクシー・ガールは壁に衝突したタクシーになっていた。マネージャーのアレクシスも又パリ・シーンから消え去ってしまう。この後合衆国に渡った形跡が残っている。映画配給に手を出した。彼の地では犯罪にも手を出して監獄送りにされている。フランスに戻ってきてからは政治家シャルル・パスクワ元で働いたこともある(冗談ではなくて)。
同年、1983年。モンディノがPV用にカメラを回して二人の姿を捉えていた。『君のような誰か(ケルカン・コム・トワ)』。パン神のフルート、異教徒風のオルガン。二人で一緒に作った最初の楽曲。スラブ風に味付けされた綺麗なバラードだった。縁日風の古びた音色はストラングラーズから借用している。画面に映し出される幻想的な麦畑、ボヘミアンのキャラバン。ダニエルとミルウェイズが登場、そして去っていく。微かな幸福の跡を残して。
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そして1984年。
パリ。クラブ「P.A.R.I.S.」。
雨のように降り注ぐ憂愁。今までにないリズム。ドラムマーシン導入。都市風のラップ、苦々しさの混じったテクノ風味。タクシーガールの抱えこんだ脅迫観念は骨にまで染みてくる。バンドが終焉を迎えかけていたこの時期、アフガンに起源を持つミルウェイズはアフロビートのリズムとアラブ風レースに飾られた新ヴァージョンを提案してきた。
バンドはこの後も2年間続いている。
まだ若かった。自信に満ち溢れていた。ファンク路線をもう一歩押し進めていく。85年の最後のインタビュー、タクシーガールは貧乏くじを引いた負け犬バンドでしかなかった。コンサートの回数も減っていた。せめてもの救い、ダニエルはまだ両親と同居していたし、ミルウェイズは連れと一緒に住んでいた。
先には何もなかった。
タクシーガール。1979−1986。安らかに眠れ。
残されたのは「マネキン」から「銃弾と同じくらい美しく」、迷走を続ける断片的なレコード群だった。7年間で残したフルアルバムは一枚だけ。山ほどのシングル、マキシシングルにLPが6枚。トータルで30曲。ダニエルはこの後もさらに黒へ踏みこんでいく。
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【第2部】
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1987年。
30才を間近に控えていた。ジャクノをプロデューサーに迎えて作られた初のソロシングル『神の影響の下で』。小レーベルからひっそりとした発売だった。ジャクノが持ちこんだソウルとポップの雰囲気に居心地は良さそうだった。結果的に二人は喧嘩別れで終わってしまうのだけれど。
「街(ラ・ヴィル)」という輝かしいシングルで息を吹きかえす。パリ時代の暗さと対照的な音作りだった。プロデューサーにダホが加わったのも納得だった。この二人のコラボレーションは以後変わらず続いていくことになる。
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1988年。
「だって僕は永遠の愛の
一歩手前にいるのだから」
ジャクノとの作業の次にギタリスト、ビル・プリチャードとの共同作品『だって(パルスク)』が発表される。幾つかの楽曲ではイアン・カーティスの歌声を思い出して複雑な気分になる。アルバム収録曲にはシャルル・アズナブールのカバー『だって(パルスク)』が含まれている。キラキラした詩心にあふれたPVを作るための口実だった。カラックスの『汚れた血』の映像抜粋を重ねあわせ、ダニエル・ダルクのささやき声は輝きを増したように見える。リリアン・ギッシュ風に白塗りしたジュリエット・ビノシュのアップが炎のように続いていく。『汚れた血』の映像ではジュリエット・ビノシュが歌っている。オープンカーの運転席に座ったミシェル・ピコリの首に腕を回しながら。
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1994年。
ソロ第2弾アルバム『ニジンスキー』発表。予算を相当落として作ったのは明らかだった。自分のルーツ、ロシア系白人への回帰。フェルトとハウス・オブ・ラヴに影響を受けたこの世のものとは思えないシングルがカットされる。売り上げはささやかなものだった。それでもこれまでに使ったことのないジャズ寄りの雰囲気で歌っているダニエルは幸せそうだった。パトリック・ユデリンに刺激を受けて執筆に取りかかる。物置からアンティーク化したアンダーウッドのタイプライターを取り出してくる。ロック批評に挑戦。ウィリアム・バロウズの文章を翻訳。武器のコレクションを始めた。パリはまだ続いていた。
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『ニジンスキー』
/ダニエル・ダルク 〔1994〕 |
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タクシーガールの長旅はとうに終わっていた。それでもダニエルが写真を取ってもらうのはいつも同じ場所だった。パリの古い墓地、凝った模様を彫りこんだ鉄柵の前で。辛い経験を重ねたダンディ、格好良い過去の人、そんな神話を少し押し進めてみせる。40代が近づいていた。チンピラ少年の羽は鉛のように重たくなっていた。体調を崩し90年代はろくでもない出来となる。可哀想なジャンキーと化して何度も監獄送りになった。薬物依存の治療もしなくてはいけなかった。数少なくなった友人が連絡を入れるといつも同じ留守電メッセージ。「ダニエルです。伝言をお願いします…」。返事は来なかった。時々パリのあちこちに出没、たまに公開朗読会に顔を出す程度、ダニエルはもう壁にクラッシュした残骸にすぎなかった。
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1998年。
精神的な迷いの時期でもあった。サン・シュルピス教会を定期的に訪れるようになる。その後バスティーユに位置する「魂の家」改革派教会の門を叩く。他の中毒患者たち同様にユダヤ人ダニエルは神秘主義に向かっていく。父親が亡くなった時にプロテスタントに改宗。途上で女性牧師との激しい恋愛に溺れるが…最後は女に捨てられる。
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パリ。
20年前、ミニマルなテクノポップがモダンな若者たちを躍らせていた。
この時期、別世界と呼んでいい場所でミルウェイズ・アマッザイが突然息を吹き返す。
ジュリエット&レ・ザンディパンダンとの空しい作業を重ねた後、ソロアルバム『プロデュクシオン』で実りがやってくる。エールとダフト・パンクの合間に位置する理想的な音だった。ミルウェイズの仕事に魅せられたマドンナが作曲&プロデュースを委託してくる。『ミュージック』と『アメリカン・ライフ』、ハードコア・エレクトロ寄りの二枚のアルバム。大化けしたミルウェイズ。でもこれはまた別な物語となる。
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【第3部】
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2003年。
果てしない墜落を重ねていく。誰もがダニエル・ダルクは終わったものだと信じていた。アルバム『ニジンスキー』と『クレーヴ・クール』の間に空白の10年が横たわっている。ダニエル・ダルクの名前を口にした時、それは薄暗がりでナーヴァスに体を動かしている分厚い影だった。太い首に石膏の顔。薄くなった髪を後ろに撫でつけ固めている。光沢を失った革ジャン姿。途方もない数の入墨で両腕は潜水服状態だった。何を言っているか分からない有様だったがそれでもマイクの前に立つとあの天使の声に変わりはなかった。情のこもった、傲慢さを帯びたあの歌声。タクシー・ガールの遺産を引き継いだのはダニエル一人だった。一年前、ダニエルを殻から引き出すために一愛好家(ドミニク・ロー)の全エネルギー、全精力が必要だった。ドミニク・ローはダニエルのために新しい曲を書き、新しいアルバムを作り出してあげた。
『クレーヴ・クール』
この二人組は元々ダニからの依頼だった。『ブーメランのように(コム・アン・ブーメラン)』でエティエンヌ・ダホと競演、この曲のヒットでダニはシーンの最先端に飛び出した。次のアルバム用にダニエル・ダルクの曲を欲しがっていた。この作品がきっかけでダニエルはドミニク・ローと一緒に作業をし、新作を作ろうと決める。
「生きた証を残さないと。じゃないと何の意味がある」
ドミニクによって回収された時点ではダニエルはアル中化した人間の屑にすぎなかった。最初のレコーディング・セッションは病院での依存症治療で何度も中断された。前年の秋にはジョニー・キャッシュが亡くなっていた。ダニエルは新作をジョニーに捧げている。宗教と自己破壊の合間を漂っていた二人の軌跡には確かに何か通ずるものがあった。ある楽曲では映画『鬼火』でのモーリス・ロネとジャンヌ・モロ−の会話をサンプリングしている。ローラン・サンクレアとコンタクトを取った。アルバムでシンセを担当しないかと持ちかける。日程の都合もあって最後の最後で話は没になった。残念な話だった。ダニエルの傍らにはひっそりと、常にアナベル・フェランデス(アンナ・ヴォーグのヴォーカリスト)の姿があった。『クレーヴ・ク−ル』期、アナベルは楽曲面だけでなくプライベートを含めダニエルに良い影響を与えていく。
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『クレーヴ・クール』
/ダニエル・ダルク 〔2004〕 |
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2004年5月25日。
クレルモン・フェランのライヴ・ハウス『ラ・コオペラティヴ』。
この6年間で初めてのコンサートだった。翌日はストラスブールの『ラ・レトゥリ』。この後も様々な音楽フェスが控えている。アート・ロック、ユーロッケアン、ロック・アン・セーヌ…。この夏だけで既に20ヶ所のコンサートが決定していた。このリズムをキープしないといけなかった。『クレーヴ・クール』発表から数週間が経過。驚くことに批評家からの反応は良く、売り上げもそれに伴って上がっていた。名声の頂点にあったアラン・バシュングが「グランド・エスパス・ツアーの前座を務めたい」、自らそう依頼してきた。こんなことが起こったのは初めてだった。
ダニエルは暗闇の中で観客を、自分のためにやってきた客を待たせていた。こみ上げてきた感情で目が曇る。ライヴハウスを埋め尽くしてる連中の半分はタクシー・ガールの時代にはまだ生まれてもいなかった。控え室でダニエルは母親に電話を入れた。最後にスピリッツを一杯喉に流しこむ(医者が駄目と言おうが気にしなかった)。
ローディーが音の最終調整をしていた。二人のギタリスト、ドミニク・ローとアリス・ボッテは既にステージ上に陣取っている。二人が微笑み、頷いてダニエルを勇気づける。
そろそろ登場の時間だった。光へと向かっていく。
喉に針が刺さった気分。
ふらふらと進んでいく。これがいつもの歩き方になっていた。
ステージ前面に置かれたマイク。
男はマイクを掴んだ。
何が起こるかは自分でも知らなかった。
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パリ、2008年1月10日(木)。
(フランソワ・ブルジェールありがとう)
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「男の子を探して(シェルシェ・ル・ギャルソン)」の頃、ダニエルはまだ地下鉄の駅で寝泊りしていた。
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「パリ、P.A.R.I.S.」はある種の長い都市の詩で、病みつきになるほど痛ましい旋律が特徴である。大半はダニエルの手による楽曲である。
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DANIEL DARC - Le Feu Follet (1ère version)
/ Gianni Pirozzi
2008.
(Diffusé gratuitement sur le forum
Taxi-Girl.org/Daniel Darc.com,
ce texte reste néanmoins
sous la protection de la SACD) |
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] Noirs [ - フランスのもう一つの文学 by Luj, 2008 - 2010 |
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