リトル・ラビット

カー


〔初版〕 1995年
クロ社 (サン・ブレッソン)
叢書「巨漢」


Petit renard / Kââ.
-Sain-Bresson: Editions Clô
-(Les Balèzes). -1995.


   

 ホテル「インターコンチネンタル・パリ」。手袋に包まれたボーイの指先が扉をノックする。ドアが開くと眼鏡姿の個人秘書が立っていた。「伯爵夫人がお待ちです」。奥で白髪、盲目のイタリア人老女が腰かけていた。貴婦人というより農夫の妻に似ている。どこか自分の母親にも似ていた。パリの五つ星ホテルで暗殺家に仕事を依頼するタイプには見えなかった。

 ストレートのスコッチを挟んで仕事の話を進めていく。「私の甥とその妻、後は二人の子供を殺して欲しいのです」。「甥」とは資産家でイタリア政界に強い影響力を持つフェルトリネリだった。政治絡みの仕事は受けないとエージェントのカーストンに言っておいたのだが…今回は例外だった。以前に夫を暗殺されたという老夫人の依頼は断れなかった。彼女の夫を浴室で溺死させ、その同僚をボウガンで射殺したのが自分だという話は当然伏せておいた。

 南仏ニース経由でイタリアへ。カーストンが押し付けてきた「仕事の相棒」は目障りなので片付けておいた。フェルトリネリ一家の所在地を突き止め、暗殺遂行の準備が整った前夜、「仕事は中止」の命令が下った。今回は従わなかった。クルーザーでポンザ島へと向かい、フェルトリネリ所有のヨットを確認、直後にヨットが爆発した。着岸直前のクルーザーは浸水、沈没、私はびしょ濡れのまま岸へと辿りついた。野次馬の姿に紛れ、煙草を吸っている満足そうな表情のカーストンが見えた。

 頭は空っぽだった。煙草を買い、レストランで赤ワインとグラッパを飲みつづけていると子供の声が聞こえた。目を上げるとフェルトリネリの息子、トマゾが立っていた。学校に行っていたお陰で爆破テロは免れたらしい。少年の全身が震えていた。胃の痙攣で嘔吐が続く。命を狙われている事実は理解しているようだった。少年を守ることに決めた。メディアは事件報道で埋め尽くされ、「遺産相続者」の少年探しが始まっていた。普通に国境を越えることは不可能だった。私は旧友の手を借り、ベルリン経由で故郷アメリカに戻る計画を練り始めた。だが策士カーストンがそれを阻もうとしていた…

 95年クロ社から公刊、カー後期を飾る名作。鋭利で繊細なアメリカン・ネイティブの一暗殺者を主人公とし、米ワイオミング州〜カナダ〜フランス〜ドイツ〜スイス〜米ワイオミング州という大きな死の輪環を辿っていきます。

 カーの他作品と本作との大きな違いは主人公を上回る知性・機動力・破壊力・経済力・政治力の持ち主カーストンを配している点。主人公の心理描写・動きに緊迫感が増し、次々と味方が殺されていくハードな展開に説得力が加わっています。

 150頁前後まで「無垢な子供をエスコートする暗殺者」のパターン(『レオン』)を用い、珍しいほど感傷的なフレーズを織り交ぜているのですが…騙された自分が甘かったです。残りの100頁で状況は大逆転、カー文学史上最も痛ましいエンディングに雪崩れこんでいきます。仏ノワールの暗殺者物ではマンシェット『眠りなき狙撃者』と『殺戮の天使』が有名ですが、構成感や速度感、文体完成度、物語の落とし方にしても本作が上位に位置しているかと思います。初版流通がマイナーだったため現地でも評価が遅れているのが惜しい一作です。


Photo : "The Doorway To Hell" / Archie Mayo, 1930
] Noirs [ - フランスのもう一つの文学 by Luj, 2008 - 2010

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