|
||||
|
||||
|
||||
|
||||
ポケットには読みかけの怪奇小説が一冊。真鍮製の栞(しおり)は大分くたびれてきたようで中々先に進もうとしてくれない。溜息を一度。刻印機(コンポスト)を通したチケットを唇に挟んだまま通路西に向かう。左手に提げたスポーツバッグは着替えと手土産で膨れ上がっている。トランクケースの方は車輪が悲鳴をあげていた。古本屋、蚤の市で手に入れた稀覯書で相当の重さになっている。何冊位買ったのだろうか。途中から数える気も失せていた。「船便で送ればいいのに」、散々に言われたのだけれどなぜかムキになって行く先々に持ち歩いている。 |
||||
列車の出発まで半時間以上。コーヒーでも飲んで目を覚まそうかと思った矢先、平積みにされたペーパーバックが目にとまる。「見るだけ、見るだけだ」と言い聞かせながら足を踏み入れる。入口から見えにくい奥の壁にジェラール・ド・ヴィリエとミッシェル・ブリースの新作が並んでいる。随分と上手い配置をするものだと感心してしまった。SASは一生買わない、子供心にそう誓ってはいたのだけれど、立ち読みくらい良いだろうと勝手に例外ルールを作ってパラパラとめくり始める。誤算に気が付いたのは数分後。ふと目を上げるとレジの男性店員が慌てて目をそらす。半裸美女の表紙にそそられた訳ではないのです。敢えて奇妙な弁解するのも何なので流しておいた。40ページで打ち止めにして店を出る。結局コーヒーは飲み損ねてしまう。道中は爆睡、目を覚ました時にはスイス国境を越えていた。何を立ち読みしたのか、タイトルが何だったのか綺麗さっぱり忘れ去っていた。 |
||||
|
||||
ヴォーヴナルグ社で発表されている各シリーズ。 |
||||
|
||||
老舗シリーズSAS(ジェラール・ド・ヴィリエ作)は一般的にアクション物、国際諜報・スパイ物の延長として捉えられている。畑違いということで仏ミステリー史では黙殺して構わないという暗黙の了解がある。英国本格ミステリーを語る時にジェームズ・ボンドは主人公にならない訳で一見当然のように思えるのだけれど、建前の背後にはもっと複雑な状況が隠れている。作者ヴィリエ氏は極右型の価値観(親米指向、人種差別思想、男性優位主義etc.)の持ち主として知られている。「SASを読んでいる。読んだことがある」。迂闊に一言口にしただけで「同じ価値観の共有者」のレッテルを貼られてしまう。好き好んで「性差別主義者」[註1]と後ろ指を指されたがる人は多くない。「表立って言及しない方が賢明だよね」の無難な判断が全体を押し包んでいく。 |
||||
|
||||
仏ミステリー(ポラール)の歴史を扱っていく史家たちにとってSASは難物である。テロリズムや国際犯罪を扱っている以上その重要性について言及しても問題ないはずなのだがある種の「良心」で歯止めがかかっていく。「安手のサディズム、エロティシズムが市場に氾濫した」。SASだけではない。後期ルブルトンやアンジュ・バスティアニ、ジャック・コロンボらの作品までこの一行に集約、処理されてしまう。 |
||||
臭い物には蓋をする。ところが受け売りが続いていくとこの一行まで無かった話になってしまう。良く言えば別枠扱い、悪く言えば村八分。仏ミステリー主流とは無縁。そう認知され読み手の記憶から削除されてしまう。ヴィリエ単独に限った話ではなく、氏が経営している出版社(ヴォーヴナルグ)に関わった作家全般に同じことが言える。ナディヌ・モンフィスの例が分かりやすいだろうか。95〜98年のセリ・ノワール参加期には書評(セリ・ノワール以外の作品を含めて)やインタビューが掲載され、ヴォーヴナルグ社に寄稿を始める(99〜02年)と一挙に扱いが激減。内容や発想に大きな差か見られる訳ではない。それなのに「そっち側の人ね」と切り捨てられてしまう。 |
||||
歴史は記録ではなく言い落としや言い損ないによって発生してくる。ジェラール・ド・ヴィリエと周辺作家(ミッシェル・ブリース、ピエール・ルカ、アクセル・キルゴール…)は仏ミステリーにとっての大きな「死角」となっていく。現在フランス国内でのSAS売上げ部数は一冊平均20万部前後(公称)だそうである。往時の30万部には及ばないとは言え大した数である。年間4作の新作を発表、さらに旧作を年6冊復刊。毎年コンスタントに100万部以上を売り上げている[註2]。ヴィリエとはこんな作業を40年続けてきた作家である。「死角」には戦後フランス文学史上で最も経営効率、営業成績の良い優良ビジネスが隠れている。70冊も邦訳のある現代フランス作家が他にいるだろうか。勝組みは誰?意地の悪い空耳が聞こえてくる。 |
||||
幸いなことに(あるいは不幸なことに)、仏ミステリー作家が皆ビジネスと業界延命に魂を売っている訳ではない。特にノワール系左派の作家は「出版はお遊びじゃない」の論理に「出版は金儲けだけじゃない」をぶつけたがる。どこかで反-SAS、反-エグゼクター、反-パリ風俗犯罪ファイルの発想を抱えこみ、結果として否定的な形で影響を受けていく。「死角」と言ったのはそういう意味で、ジャンルの可能性を意識し、ヴィリエの轍を踏まないよう努力する作家ほどSASの暗い影がチラホラと漂っていたりする。 |
||||
|
||||
1) ジェラール・ルカの場合 |
||||
ミステリーって本当に大衆的な(ポピュラーな)文学じゃないといけないのかな。文学がポップかどうかを計る基準って何だろう。「ポップだポップだ」って書き手が派手に繰り広げている宣伝の数?売上部数?でも後者だったら真の大衆文学はSASになってしまうよね。違う? |
||||
ジェラール・ルカ、2000年 |
||||
セリ・ノワール作家/翻訳家ジェラール・ルカの発言は、仏ロマン・ノワールが抱えこんだ構造的な矛盾を映し出している。ノワール小説のアイデンティティーは意外に脆いもので、純文学(白い文学)を前にした時は「芸術のための芸術ではありません。作家の自己満足ではなく皆様向けに書いています」と強がってみせる。実際には難解な言語実験や凝った文学参照が含まれることがあり、万人向けのエンターテイメントかどうか怪しかったりする。下世話な想像力でひたすらに売りまくるSASと並べると圧倒的に分が悪い。 |
||||
ロマン・ノワールをめぐる言説には胡散臭い内容(「社会を映し出す鏡である」他)が多々見られる。大衆文学起源説もその一つ。仏ノワール小説は混ぜ物が多いジャンルなのでルーツを一つに絞ろうとしても意味がない。内的論理の一貫性が破綻している状況をジェラール・ルカは的確に要約し、自問を重ね、読み手にも同じ問いかけを開いていくのである。 |
||||
|
||||
2) ジャン=ベルナール・プイの場合 |
||||
何でヒロインのシェリルが金髪で美容師かって?あちこちで「金髪美容師」を怒られるな…待ってくれよ。金髪女性と美容師が突然駄目になってるけど何が悪いの?「いやでも金髪の美容師って…」。金髪の美容師にした理由はね、SASマルコ皇子の連れアレキサンドラが大柄茶髪で現代アートを扱っているからなんだよ。どうしてプルプが飛行機を修理しているのか?マルコ皇子がリヒテンシュタイン国境の古城を修復しているからさ。プルプは大衆版だからヴァル・ドワーズの飛行場で錆びついた金属の塊を修理しているんだよ。 |
||||
ジャン=ベルナール・プイ/インタビュー |
||||
「駅売り文学でいこう」。1995年末にプイが連作シリーズ「ル・プルプ」を始めたとき、SASを下敷きにしたお遊び企画であるという前提は良く見えていた[註5]。プイは作品によっては過度の実験に寄ることもあるのだけれど、今回は出版者側からの依頼もあって「笑える」キャラクターを発案。「ル・プルプ」ことガブリエルは五月革命世代(日本の安保世代)の理想と現実、美徳と短所を総合した勧善懲悪型パルプ・ヒーローとなった。「最初に集まった10冊のプルプがきちんと出版されて出版社が損しなければ良いかな、くらいだった」。目論見は大きく外れプイの手元には150冊近い原稿が集まってしまう。SASが第150番『バグダッド特急』にたどり着くまで40年弱。ル・プルプが5年強で同じ数に達してしまった辺りに爆発力を見て取ることができる。 |
||||
90年代末を席巻したル・プルプがSASのアンチテーゼ/ネガであったという事実は重要である。ジェラール・ルカが生真面目に自問自答を繰り返している場所で、プイはSASを踏み台にし、B級文学の祝祭でジャンルを盛り立てていく。悪口を言うだけが「批判」ではない訳で、プイは換骨奪胎による一撃によって元シチュアシオニスト(状況構築主義者)の意地を見せつけたのである。 |
||||
|
||||
3) パトリック・ペシュロの場合 |
||||
「半開きにした唇に突き出された舌先。子猫の舌と同じ桃色をしていた。両手がゆっくりと降り始める。薄いドレスの布地の先、自分の湿った下腹部に向かう。喘ぎ声は長い獣の叫びになっていく。 |
||||
『夜=終着駅』、20ページ |
||||
プイの直裁さと比べるとパトリック・ペシュロの戦略は数段倒錯している。『夜=終着駅』はSAS作品のパロディを組みこんだ初のセリ・ノワール作品になっている。『バルカン諸国の皇子』なる実在しない作品名を案出。オリジナル版でマルコ/Malkoだった綴りはマルコ/Markoに変わっている。ヴィリエ氏に訴えられたとしても「いや、偶然の一致ですよ」の逃げ道が用意されている。コピー/カット&ペースト/編集の言い回しにも毒がある。SAS型の荒唐無稽な文章をいかに楽に、「投げやりに」、機械的に作れるのかさらっと示してみせる。 |
||||
ぺシュロの矛先は古参のセリ・ノワール愛好家にも向けられている。年輩世代のノワール愛好家にはSASを生理的に受け付けないという連中が多い。間違って上の引用に出会ってしまうと眩暈や立ちくらみ、嘔吐感を覚えてもおかしくない。ぺシュロという作家はジャン・アミラとジャン=フランソワ・ヴィラールの二人に強く影響を受けており、価値観的にはプイ以上に過激な思想を隠し持っている(露骨には表に出さないのだが)。SASを記憶から消し去ってしまい、セリ・ノワールの過去の栄光にしがみついているノワールな保守層を針で一突き。ペシュロにとってSASは単なる仮想敵であり、マルコ偽皇子を踏み台にしてより大きな何か、漠然とした何かを攻撃しようとしている。 |
||||
|
||||
4) コロネル・ドゥルッティの場合 |
||||
「早朝、プレス・ドゥ・ラ・シテ出版社の輸送トラックがジャックされた。積荷のSAS作品5万冊がジョンヴィル近辺、マルヌ川に捨てられたんだって」 |
||||
『卑怯な輩は殺してしまえ』、43ページ |
||||
ジスカール・デスタン大統領末期の荒れた世相を反映し、80年代の仏ノワール小説には小セクトやテロリスト集団を扱った内容が目立つようになっていく。「長靴を履いた猫」(ファジャルディ[註5])、「ブルターニュ解放キリスト教戦線」(ジャウアン[註6])、ジャンヌ・ダルクの転生アンヌを中心とした「ランボー」(プイ[註7])、「紅希望部隊」(ドゥムーゾン[註8])、「ローズ・セラヴィー奇襲隊」(ヴィラール[註9])…。セキュリティやテロリズム、90年代以降を規定していく諸問題がこの時期に準備されていった。覆面作家コロネル・ドゥルッティによる「ル・ソヴィエト」もその一変種であるが、作中どさくさに紛れてSAS作品の輸送車を襲わせている。 |
||||
有名所のSASをネタにして自作の肥やしにしてしまう。『卑怯な輩は殺してしまえ』の戦略はプイ/ペシュロ双方に相通じるものがある。発想は焚書と同レベル、言論の自由など意に介した様子もない。政治的正しさを堂々と踏み外していく確信犯。ル・ソヴィエト連作には軽さと出鱈目さ、良い意味での安っぽさがあった。純文学の重みを引き受けているセリ・ノワール3作家(ルカ/プイ/ペシュロ)との大きな違いである。 |
||||
|
||||
ジェラール・ド・ヴィリエ |
||||
|
||||
2005年、ジェラール・ド・ヴィリエは対談番組「巷の話題」に出演[註10]。人気司会者のアルディソンに「今でも人種差別の考えは変わっていないのですね」と叩かれていた。同席したもう一人のゲスト(ジャン=ピエール・フーコー)からは女性蔑視の言動を咎められる。「幾ら軽蔑しても足りないくらいだ!(メプリザーブル)」の啖呵が放たれると客席から拍手喝采。あまりの炎上を見かねた元文化相のジャック・ラングがフォローに入る始末だった。 |
||||
アルディソン対ヴィリエのTV対決は放映後にちょっとした話題となった。アルディソンの発言を支持する者、ヴィリエ擁護に回る者、「五十歩百歩」と切り捨てる者…。電波上で火達磨になっていた白髪の老人が誰か知らない人も意外に多かった(政治家フィリップ・ドゥ・ヴィリエと混同されていた)。「古本屋の軒先で雨晒しになっているSASの作者ですよ」と説明すると「あぁ、そうなんだ」の表情が返ってくる。 |
||||
顔は知られていない。尊敬もされていない。文学史上で評価されている訳でもない。それでもこのベストセラー作家は超然と構えている。「巷の話題」後半、集中砲火を浴びてさすがの苦笑いも引きつっていたが、声を荒げることなく最後まで切り抜けたのは見事だった。あの番組を見て「アルディソンの方が子供じみていた」「ヴィリエを見直した」の反応が起こってしまったのも頷ける。番組の最後でアルディソンはヴィリエ新作(05年の回想録)を宣伝していた訳で、道化を演じて自作の売上げが伸びるのであればヴィリエ的にも損な話ではなかったのである。 |
||||
|
||||
文学の影響関係は何も直接的なものばかりではない。ある作家、あるジャンルに影響を受け、何をどう書いていくか学んでいくと同時に、別な作家やジャンルを否定して「何をどう書いてはいけないのか」も学んでいく。現代仏ノワール小説にとってジェラール・ド・ヴィリエとSASはこの種の反面教師となっている。女性を物扱いしてはいけません。肌に色がついているからといって見下してはいけません。欧米新保守主義の価値観で物事を断定してはいけません。SASは「こんな書き方をしてはいけませんよ」を懇切丁寧に教えてくれる優秀な教師である。 |
||||
一方ジェラール・ド・ヴィリエが念頭に置いているのは英米系の政治スリラー(クランシー、ラドラム、ル・カレ、フォーサイス)だった。自分が英語圏に生まれていたらその筋の愛好家に評価されていたはずだと確信している。たまたまフランスに生まれてしまったため低評価に甘んじているのだと信じている。本当にそうだろうか。自己認識と実態はずれている。SASは各国語(英、日、伊、蘭、独、ルーマニア…)に訳されているものの、読み捨て用のB級エロスパイ小説の扱いはどこでも変わらない。ラドラム古典、フォーサイス近作と並べたら罰が当たってしまう。 |
||||
そう考えてみるとSASはアクション・謀略・国際政治スリラーの主流派以上に仏ノワール小説に対して大きな貢献を果たしてきたことになる。ヴィリエ氏にとってはロマン・ノワールという弱小ジャンルなど眼中にないのだけれど、意図せずに、当人的には決して好ましくない形で仏ロマン・ノワールを育て上げている。仮想敵のいる風景が現在の仏ノワール小説に緊張感をもたらしているからである。この時、先に「死角」と名付けた領域は禁じ手を多く含んだタブー(禁忌)のテリトリーとなっていく。文学、あるいは創造行為一般にとって禁忌とは存在基盤の一つだった。SASがなかったら仏ノワールそのものが別な形で動いていったはずである。 |
||||
対SAS。対ジェラール・ド・ヴィリエ。ロールス・ロイスに乗った白髪のジェントルマンは蛇蠍のごとく厭われ、唾を吐きかけられ、鼻先で笑い飛ばされ、悪しき産業文学の手本として呪われていく。だからと言って甘く見て良いという話ではない。仮想とはいえ優秀な敵である。だからこそ射程圏は見極めておく。いつか皇子様に足元を掬われないように。 |
||||
ジェラール・ド・ヴィリエ: ご存知と思いますが、私にはそんなに高くつく悪癖ってないんですよ。例外は女だけで。こればかりはいつになっても高くつきますね。 |
||||
ジェラール・ド・ヴィリエ/インタビュー |
||||
|
||||
【原注】 |
||||
〔1〕: ヴィリエ作品では女性のレイプ願望が当然視されている。嫌がっているように見えても「本当に抵抗している訳じゃない」等々。B級エロ小説特有の記述があちこちに散見される。 |
||||
〔2〕: 数値データはチャレンジ誌154号(2001年3月号)に掲載された記事とテクニカール誌80号を参考にしている。 |
||||
〔3〕: サイト及びデータは現在消滅。引用は手持ちの資料より。 |
||||
〔4〕: 参考URL: www.pastis.org/6piedssousterre/pouy1.htm |
||||
〔5〕: 「実際の所、大衆文学の衰退を認識することで全てが始まっていく。駅を見てみればいい。ミステリー作品で何が見つかるだろう。”SAS”と”エグゼクター”。レベル的に最低で吐き気のする作品である。逆説のようであるが、インテリ作家たちがジャンルを支え、レベルを上げようと努力したせいで逆に仏ミステリーが駄目になってしまった」 |
||||
〔6〕: 『長靴を履いた猫の夜』、フレデリック=H・ファジャルディ。 |
||||
〔7〕: 『バグパイプで泣かないで』、エルヴェ・ジャウアン。 |
||||
〔8〕: 『我ら聖女を焼けり』、ジャン=ベルナール・プイ。 |
||||
〔9〕: 『紅希望部隊』、アラン・ドゥムーゾン。 |
||||
〔10〕: 『死ぬのはいつも他人』、ジャン=フランソワ・ヴィラール。 |
||||
11〕: 「巷の話題(Tout le monde en parle)」、 |
||||
|
||||
【書誌】 (文中に引用したノワール作品のみ) |
||||
・『夜=終着駅』 パトリック・ペシュロ著 |
||||
・『卑怯な輩は殺してしまえ』 コロネル・ドゥルッティ著 |
||||
・『長靴を履いた猫の夜』 フレデリック=H・ファジャルディ著 |
||||
・『バグパイプで泣かないで』 エルヴェ・ジャウアン著 |
||||
・『我ら聖女を焼けり』 ジャン=ベルナール・プイ著 |
||||
・『紅希望部隊』 アラン・ドゥムーゾン著 |
||||
・『死ぬのはいつも他人』 ジャン=フランソワ・ヴィラール著 |
||||
|
||||
|
||||
|
||||
] Noirs [ - フランスのもう一つの文学 by Luj, 2008 - 2010 |
||||
|